そして、この佐渡流罪は2年と6ヶ月ですね。
その中に、兼ねてから大聖人様が御断言されていた自界叛逆と他国侵逼の二難が目の前に迫ってきた。
自界叛逆は自界も自界で、北条時宗の実の兄である北条時輔が謀反を起こしたんですね。
それに伴って鎌倉と京都で同士討ちによる戦が起きた。
親族の中でもってそのような自界叛逆が大聖人様の仰せの通りに巻き起こった。
そして、他国侵逼は大蒙古の使いが頻々として流罪の最中において鎌倉幕府に牒状(手紙)を持ってきたんです。
要するに、襲来の意を書いて脅してきたわけであります。
この動きを見て、国主の北条時宗は驚き、そして怯えて改悔の心を起こしたんです。
大聖人様が罪なき罪でもって佐渡に流された。下の者の言うままに流したけれども「日蓮大聖人は罪がないんだ」という事を時宗だけは知って改悔を起こしたんですね。
そして、大聖人様を鎌倉に帰しまいらせた。これまさしく諸天が動いたんです。
佐渡御流罪より6か月後の文永9年4月に著わされた『最蓮房御返事』にはこう仰せになっておられる。
「鎌倉殿は許さじと宣給い候とも、諸天等に申して鎌倉に帰るなり」
「たとえ鎌倉の北条時宗が『大聖人を佐渡から帰さない』というような事があろうとも、諸天に申して鎌倉に必ず帰る」
という事を大聖人様が最蓮房に仰せになっておられる。
この仰せのごとく、大聖人様のお申し付けによって諸天が動いた。
自界叛逆が事実となり蒙古が容易ならざる状況になってきた。
そして、北条時宗が改悔して、ついに大聖人様は堂々と鎌倉に帰り給うたのであります。
この時、北条時宗は佐渡からお帰りになった直後の大聖人様を鎌倉幕府の殿中に招いたんですね。
そして、平左衛門をして「このような事を大聖人様に伺い奉れ」という事を命じたんです。
どういう事かと申しますると「大蒙古はいつごろ襲来してまいりましょうか」という事を平左衛門にうかがわせているんですね。
大聖人様は厳かに答え給うた。
「経文にはいつとは見え候はねども、天の御気色怒り少なからず、急に見へて候、よも今年はすごし候わじ」
「今年を過ぎる事はないであろう」というんです。
これが、文永11年4月8日の御対面ですから、今年も残るところ8ヶ月しかない。
「この8ヶ月の間に蒙古が必ず襲来する」と指をさすような御断言をあそばした。
そして、大聖人様は鎌倉を去って直ちに日興上人のお勧めによって身延の山にお入りになられたわけであります。
そして、このの年の10月、御断言は寸分も違わず、大蒙古の軍船は大挙して日本に押し寄せてきた。
これが、文永11年の第1回の蒙古襲来であります。