58歳になれました。

2020年7月28日が、命日になる事なく。まだ、命与えられて、私は生きています。


ミュージカル『ひめゆり』より。すっかり脳内ひめゆりづいております。


くも膜下出血を克服し、次々と大きなミッションが迫ってきます。


「このミッション終えなきゃ死ねないよ」


そんな天の声が聞こえるかのようです。まずは、ミッションこなせるようになるまでの、リハビリ記録のリンクを貼ります。


お役に立ちそうでしたら、覗いてみてくださいダウン




母の、グループホーム入居で弟夫婦との絆が深まり、去年から花を送ってくれています。感謝。



弟と2人で食事しながら話したり。何年ぶり?と言うか、初めてかも。


私がいて、本当によかったと言ってくれました。それはわかる。介護って、また介護保険の仕組みや介護関係の方との関わり方など、慣れていないととにかく大変。


自分ギフトは、ミュージカル『VIOLET』。観劇記録は、また後日まとめます。まだ、脳内の整理ができておりません。観劇する直前まで、『ひめゆり』の感想まとめていました…




最推しspiさんが、ご出演中です。



開演前たっぷり時間があり、ミュージカル『ひめゆり』の感想ブログをアップしようと頑張りましたが1軒目ではまとめきれず、カラオケ店で続きを。快晴の池袋も満喫。桜もまだ残っていました。


ランチに入った、(長居してすみません)サイ◯リヤの窓から。葉が多めですが、桜が正面に🌸




サイ◯リヤを出て外を見回すと、誕生日クーポンのあるカラオケ館さんを発見。地元で行くつもりでしたが、もちろんお邪魔しました。ブログ綴っただけになりましたが。



カラオケ館さん、今年もお祝いありがとうございました!!花火が、華やかで嬉しい。



私は姉と弟2人の4人きょうだいで、長女は体調不良の上母とそりが合わず、末弟は2021年に54歳でなくなりました。


最初から、2人だけのきょうだいだと思ってミッションをこなそうと、弟と話し合いました。


そうしないと、恨み節が出て仕方ない。4人いるはずなのにと、こういう時に考えても無駄なだけ。


母が、私の葬儀に出なければいけない状況を、避けられた事が本当にありがたい。弟の葬儀や納骨で悲しみに暮れる母が気の毒でした。私がもしいなかったら、続いて弟をなくしたらと思うと、本当によかったと思うのです。


4人の子供の半分を、自分より先に立て続けに送るなんて。辛すぎる。



とにかく、私が元気を維持するためには母はグループホームに行く以外選択肢はなしと、母とも話し合いました。


お互い安心して生きていきたいのです。健康で悔いのないよう、ミッションこなします。


グループホームに入所したので、母の、かつての住まいは都営住宅なので、待機の人のためにも早く空けなくてはと思いましたが。


桐箪笥から溢れている着物たちをどうするかが、悩みどころの一つでした。


なぜ、母や私は着物を沢山持っているのか。それは、母方の祖母が和裁の仕事をしていたからです。



母は、昭和14年1月生まれで、同20年3月10日の東京大空襲で家をなくしました。台東区浅草が、母の本籍です。





家は全焼しても、命は家族全員無事だった。地元浅草で役員をしていて、外出中の祖父も、和裁で家計を支えた祖母も。6歳の母を頭に、3歳の叔母と、まだ1歳前の叔父。まずこれだけで奇跡。


母は、長女ですがこの時まだ6歳(よく7歳と言いますが、数え年かなと思います。)、幼い叔母と叔父を母に託して、また燃え盛る家に戻っていった。


戻れるのかもわからず、母は祖母を、ハラハラしながら待っていたそうです。その時の気持ちは忘れないと母は言っておりました。


無事脱出した祖母は、何と米びつを抱えていたとか。


着の身着のまま、右往左往して右に逃げるか左に逃げるか迷った。たまたま逃げた方が焼け残り、反対側に逃げた人はみんな死んでしまった。


もし、祖母が逆側に逃げていたら、昭和20年3月10日が、祖母や幼い母たちの命日となり、私はこの世に存在しないのです。


一生懸命逃げて、母を守って生きてくれてありがとうと、生前ちゃんと言えなかったので、天国で会えたら心からお礼を言います。そのためには、天国に行かれるように生きないと。


祖母から繋がった、命はすごい数になっています。1人の命が助かるか助からないかで、未来の、想像を超える数の命が消えてしまう。



戦争の映像をテレビで流していると消して、「戦争のテレビは観たくない!」と言っていました。毎年3月には、テレビを観ては気分が悪くなると言って寝込んでいました。



若き祖母が、幼子3人を育てながら親類を頼り、小岩へまず逃げてから、さらに千葉へ。


祖父は心疾患で、母が16歳のとき突然死。享年45歳。


戦争とは関係なく、祖父は御神輿などの飾りを作る彫金師で、お酒を飲みながらずっと胡座をかいての座り仕事だったからだと。


「塩を舐めながら、日本酒をかなりの量毎日飲んでいたから、仕方ないのよ」


と、母はかなりあっさりと言いました。


母は高校入学と同時に夜学へ転校し、昼はOLとなりました。13歳、10歳の叔母や叔父も、新聞配達や、豆腐屋などでアルバイトしたそうです。さらに、戦後生まれた、7歳と4歳の叔父もいました。


15歳で、会社勤め。周りは皆大人で、すごく可愛がられたと、母は楽しそうに当時の話をよくしています。


祖母は、家事は子供に任せて、日がな一日生活のために着物を縫い続けたそうです。


その祖母は、最期の日まで自力でトイレに行って、昼食後昼寝をしながら静かに彼岸へ渡りました。94歳でした。



母は認知症のため、今年3月グループホームに入所。長年考えていたけど、とうとうできなかった、着物の処分を私達でしようと決意しました。


そんな訳で、我が家には着物が沢山ありました。小さい頃から、祖母は節目節目に、ずっと着物を縫っては着せてくれました。



私の成人式の着物は、後々訪問着になるように色無地の三紋で、祖母が反物から選び、染めも職人さんに頼みました。


無地でも織柄がある淡いオレンジで、袖を切って縫うのは祖母の指導のもと、自分でやってみました。


切らなければ娘の成人式で着せられたのですが。そこまで考えが及ばなかった。


また、結婚して子供ができると、子供用の小さい布団くらいできる材料があるから作ってみなさいと勧められて、祖母に手取り足取り手伝ってもらいながら縫いました。


布団を縫うなんて、一生に一回だと思い興味もあり。昔の人は、何でも作っていたんだなあと、つくづく思いました。


新生児が着る大きさの胴着も、生地もあるしすぐ縫えるからと祖母に言われて、12月生まれの長男のため祖母が用意してくれたネルの生地で、3着縫いました。


祖母との、良い思い出です。


縫い方を教えてもらいながら、色々な話をしました。


着物が古くなったら子供用に縫い直して、最後は座布団に。


襦袢や腰巻きは、赤ちゃんのオムツか雑巾に。


ボロボロになるまで、リサイクルしながら使い続ける。  


大切に着て、汚れたら解いて洗い張り。洗い張りとは、着物を分解し、洗ったあと生地をしっかり伸ばして板に張り付けるようにして乾かしたあと、また縫い合わせる。


いやいやいや、忙しい現代でこれは無理!!浴衣などは、丸洗いしますが。


またある時、祖母の目の前で、前回つけたしつけ糸を取って続きから縫うため、しつけた途中から、糸をすくって糸切鋏でパチパチ切って、短くなった糸を抜いて捨てていると叱られました。


「縫い終わりの玉を探して、そこだけ切ってすーっと抜けば、またその糸が使えるんだよ!」


え、と固まった私。糸を抜いてまた使うという、感覚がまるでわからなかった。学校で、そんな事教わらなかったし。


戦後、物資がないときもちろん服も売っていなくて、自分で作るのが当たり前。


作りたくても針や糸もなかった。


祖母は仕事柄沢山あったので、針と糸を、沢山の人に分けてあげて、代わりに食料をもらった。


それだけ、針と糸が貴重だったという話をしてくれました。恥ずかしかったので、忘れません。


祖母と、こんな話ができた事をありがたく思います。



昭和14年生まれの母の時代は、嫁入り前にお茶お花、そして着付けができて当たり前。渋々習いに行っていたそうです。

 

祖母が、私たちに縫ってくれた着物を、母が管理していて、それをまた孫たちに着付けてくれて。全部、私達は母に戻していたのでした。


従兄弟たちの着物も母が預かり、近所の方の着物を好きならあげると言われたと、もらっていたり。


多いわけです!私に桐箪笥を持たせて、うちに置けないから預かってと送られてきたりもしました。


ひ孫にまで着せたい気持ちがあったかもしれませんが。


習い事の話に戻りますと、


三味線や珠算もやっていたそうです。珠算は役に立ってよかったと言っていました。そして料理に掃除洗濯も、みっちり仕込まれる。


立派な主婦になるため。家を守り、子を育て嫁ぎ先の親の介護をするのは、嫁の仕事だった時代。


私たちきょうだい4人がまだ小学生の頃、同居の父方の祖父母が相次いで倒れて、母は介護と子育てで疲れ果て、食べる時間もないほど家事に追われて、痩せていくのが子供の目からもわかりました。


私が結婚した時、


「あなたは、身体が弱いから子供は保育所に預けて働いた方がいい」


と言ってくれた母。0歳から保育所育ちとなった子供たちが不憫と、叔父叔母には随分言われましたが、母だけはわかってくれている事が心強かった。


身体の弱い私が、くも膜下出血で倒れて、退院したあとすぐ弟が倒れ、姑が倒れ。そのお世話で奔走する私を気の毒がって、労わってくれていましたが、とうとう母も。


今まで、娘として甘えさせてもらえた事に感謝して、もう役割交代です。


姑の着物も箪笥2つ分ありましたが、それらは義妹が捨てました。


いくら高級な着物でもなかなか売れないし、持っていることもできないからと、バッサリです。


私は、処分しなければと思いながらも、やはり、どうしてもただ捨てるのでは忍びない。


祖母が、正座して小さな背中を向けて着物を縫っている姿を思い出します。何時間も正座ができる人でした。


大好きな、演劇で役に立たないかと思っていたところ、引き取っていただけると言ってくださった団体様が!


ありがとうございました。捨てずに着物が外に出て着物として役に立つことが、とても嬉しいです。


祖母が見立てて長身の私に合わせて、縫ってくれた着物たち。とても気に入っていたものが2着あり、友人やきょうだいの結婚式や披露宴、子供の卒入学式など、活躍してくれましたが。


2020年くも膜下出血後、排泄のコントロールが難しくなったと感じています。  


くも膜下出血の後遺症だと思います。その上、経年劣化も加わっているはず。


「まだ大丈夫」と思っていても、急に「トイレ!!」となるので、もう恐ろしくて和装はできません涙


娘に持たせるのも、悩んだ末やめました。いつか、私のように悩ませるだろうから。





















いつか、舞台の上で再会できますように。



心機一転、また1年感動いただきながら、笑顔で生きていけたら幸せです。気になる作品が目白押しです!!


今後とも変わりなく、よろしくお願いいたします。












誕生日に、桜と過ごせるのは久しぶりでした。記録させていただきます。


また、来年も会えますように。花は綺麗ですが、寒暖差が辛い季節。どなた様もご自愛ください。



長くなりすみません、もう1つご報告です。


昨年春から、ついに1年通して自転車で通勤しました。去年までは、冬はバスにしていました。暗くなると、目が見えづらくなるためです。小脳の関係みたいです。


同じ道を、とにかくゆっくりヘルメットも購入して、


気づいたら春を迎えました!一度バスにしかけたのですが、バス停まで荷物を持って歩くのがもう面倒で。


そして、この地元の桜の名所は、自転車でないと見れないのです。






短期目標は、自転車乗れる体調の維持。長期目標は来年も桜を見て、2人の母をきちんと送る。


コツコツやります!!🌸