孔子は、アニミズムやシャーマニズムを、ヒューマニズムたる儒家は遠ざけなければならないと規定した。だから、中国でも韓国でも、個別の事物や物体に畏敬の念を抱く「宗教」は、社会の底辺に追いやられている。
日本で、シャーマニズムとアミニズムが合体した神道が、公的な宗教の位置を占めているのとは、全く異なる様相である。
儒教的知識人(支配層)である両班の家と庶民の家々とが一つの有機体を形成し、村全体は、両班の「気」によって支配され、「儒教的道徳」によって方向づけられている。両班の邸宅から離れて村はずれの方に行けば、「非儒教的」な気が濃く、仏教は排斥され、寺院は山中深くに追いやられたので、村には仏教的な気配はほとんどない。風水地理などの「道教的」なものと、儒教から迷信として蔑まれた「シャーマニズム」的なものも村はずれのものであった。
日本人は、本当に「男」が自分たちの快感のみを増幅するような社会をつくるとどうなるかを知らない。それは、日本では中国宋代以降のような「朱子学社会」が実現したことがなかったからである。
江戸時代は儒教社会ではなく、封建社会であった。日本のフェミニストたちが攻撃してきたのは封建的な家父長制であるが、これは、男たちが本当に真剣に自分たちの快感を極大化させようとして作ったシステムとは言えず、「儒教的システム」こそが、男たちの宇宙的快感のためのものなのである。
最も強度の高い圧力を受けるのは、女性たちであった。そこから逃れ出るには、両班の宇宙快楽を無視して「理」から逸脱した「情としての気」そのものに生きることをしたが、その「奔放な情」の世界や「理に服属した従順な情」の世界に遊ぶことを毛嫌いした女性は、突然、憑依して放心状態になり、シャーマンとなり、恨(ハン)という黒い感情を解放させた。
四書五経にもとづく男たちの理ではなく、天の神霊を直接自分の身体に受け入れることによって、雷電に打たれて卒倒するかのような劇的な快楽を実践するのである。朝鮮の儒教システムにおいて、シャーマンは「賤民」にカテゴライズされ、村人たちから極度に蔑視される。不浄視されたマルブンのところには、村の女たちが集うようになる。
以上、「朱子学と陽明学(小倉紀蔵)」より、日韓比較部分の一部を引用いたしました。日本とは180度異なるのが神道・仏教に関する考え。日本では、加持祈祷は貴族のものであり、祭事を行う神官も高貴な身分であり、高位に位置付けられた。仏教における高僧も同様。
女性が非常に抑圧された状況に貶められた結果、シャーマンになり、蔑視されながらも、他に術がないとは可哀想です。しかし、日本の神社でも恨みを晴らす為に、藁人形に釘を打つ「丑の刻参り」がある。この儒教的な思想の関係はどうなのだろうか。女性を崇める日本文化で育った日本女性には、韓国人女性以上に耐え難い屈辱と、それに伴う抑鬱を感じることになるでしょう。儒教はよく男尊女卑として語られます。
この中国韓国的な儒教文化を日本国内に持ち込み、実践する動きがあるのではないだろうか。男たちだけが快感を極大化するという儒教システムにおいては、当然のことハラスメントも起きるでしょう。夫婦別姓を推進する政治家も野党。近年の神社、仏閣へのテロの多さは、日本への物的被害に留まらず、精神世界への侵略であり暴力であるのです。宗教を否定し、占いや易に関する考えを無くそうという考え方は、やはり、共産主義的だと思えます。カレンダー・暦から、吉凶を示す大安・仏滅等の表示を無くす動きは既に起こっている。その思想が差別的だとするものでしたが、営利面に不利を与えている、というのが実際ではないのでしょうか。
宗教施設を暴力的に破壊する背景にある思想とは暴力革命です。仏像の両手首が切り落とされる嫌がらせは、かつて白人が支配していた時代に、奴隷に対して為された差別的感情から起きたもの。仏教を下位に見なす嫌がらせなのでしょうね。
儒教的知識人が支配層になり、上位に立ち、これ以外の知識人や、将来的な知識人を不要として、弾圧粛清して行こうとすることも、暴力革命の目的であるようです。これはポル・ポト政権に例を見ることができる。