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Mutant-Lab

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なんなんだろ、頭が動かない…と思ってた。軽い記憶喪失?

いきなり物理学の話なんて書いて、オレどうしちゃったんだろ、って。
さっき思い出しました。

5日、オートバイ世界選手権モトGPのイタリア・サンマリノGPで、モト2クラス(旧GP250)参戦中の富沢称也選手が、決勝レース中の事故で亡くなりました。

日テレのモトGP番組で見て…しまった。彼が死ぬところを。

接近戦のトップ集団、一時はトップだったのが4位まで後退した後、高速連続コーナーの短い繋ぎ区間で、アウト側縁石に乗ったままリヤスライドして転倒、直後を走っていた2台に激突されてしまいました。

なんであんなところであんなクラッシュが…そんな事故でした。

普通なら、コーナー出口の転倒ならコース外に出てしまうはずなのに、縁石に乗る直前のスリップだったために、前輪がオーバーステア残しながら転倒する形だった。

おかげでバイクもライダーもコース上に残ってしまった。一瞬早く転倒すればコース外に飛び出して骨折すらしなかっただろうに…あと一瞬踏ん張れば転倒しなかったのに…。

悪い偶然が重なりまくった結果、というしかないです。

思えばF1のセナ、ラッツェンバーガーもサンマリノでしたね。

オレはレースファン長いことやってるけど、やってていいのかな、と悩む。慣れない。いまだにダメだ。絶対にメタメタになる。人が死ぬのをみるのは、本当につらい。

富沢選手は19歳。今年カタールで優勝するなど、将来を嘱望されていた注目ライダーでした。

ご冥福をお祈りいたします。本当に。

アカデミー賞受賞で話題になった、アメリカのイラク駐留軍の爆弾処理部隊の3人を描くストーリー。

(ネタバレ注意!)
別に傑作じゃないけど、映画としてはよく出来てる。
なにより、対イラクでの最前線はどこか、って意味で爆弾テロと直接戦う部隊を選んだところを大いに評価したい。

軍事にはそれなりに詳しいつもりだったけど、やっぱ爆弾はコエェ(T-T)。

まあそーいう感想はおいといて、この映画、実は傑作じゃないか、という疑念がある(笑)。

なぜなら、手垢のついた戦争批判も、戦争プロバガンダも、極力抑えている。手垢のついたはずのキャラ配置、危険を楽しむかのような狂った無謀さを見せる主人公の曹長、心底死を恐れる部下の軍曹、すでにやや心を病んでる若き技術兵、を描きながら一味違う。

主人公のジェームス曹長は、800以上の爆弾処理をしてるという。あんな緊迫感を800回も体験してるって、まともな神経なわけない。オレなら数回で発狂するって(T-T)。同世代のサンボーン軍曹とはいろんな意味で格が違うし、本人たちも理解してるのだが、常にぶつかり続ける。

あんなにケンカばかりなのに、いざ一緒に建物探索する時は、互いに命を預けあってプロの兵士としてキビキビと動けてしまう。あのプロ兵士の動き、も実に見事だ。カッコイイわけじゃない。そうせざるを得ない、という描き方がスゴイのだ。

砂漠で狙撃兵に狙われるシーンでの、ふたりの助け合いも実に深い。撃たれた別部隊兵士の変わりにバレット(大口径狙撃銃)の射手となったサンボーンと、観測員としてサポートするジェームス。どうすれば生き残れるのか、それを恐ろしいほど冷静に見つめながら、淡々とできることをこなしていく。そこに浪花節的表現は一切ない。

850mの超長距離狙撃となると絶対に2人必要。すでに何人も狙撃されてるんだから、最優先なのだ。だから後ろで何か動いた、と新米技術兵が叫んでも、振り向きもせず「任せる」と叫び、新米の銃声を聞いてGood job.とつぶやく。

吹けば飛ぶような自分の命を常に感じながら、時には人を撃つのを躊躇い続ける新米に命を預けながら、淡々と仕事をこなす姿がスゴイ。

ジェームスたちをピリピリ(ビクビク)している、と評する男が出てくる。でもそーじゃない。あれがプロ兵士なのだ。そうじゃないと生き残れないコトを肌で知ってるから、ああなる。そういう描写も実にうまいし、彼らほど神経を使わない人々は実に簡単に死んでいく。

爆弾処理の描きワケも深い。いろんなパターンの凄惨なテロ爆弾を描いて、最後に生きた民間人に爆弾を背負わせた人間爆弾が出てくるところがまた、とても意味深なのだ。

でも、ジェームスは、よくある戦争映画の狂った危険大スキ兵士じゃない。ここまでナイーブなのか?という表現がいっぱい出てくる。

しかも、ラスト手前でサンボーンに、どうして耐えられるんだ?という問いかけに、ジェームス自身がまるで子どものようにおどおどしてしまうところが…スゴイ。

キーワードは、ジェームスが見たバグダッドの空に上がる凧と、帰還した後見るマーケットのシリアルの箱。

これはある意味、戦争映画ではない。戦争批判か戦意高揚なのか、という話はすでに関係ないのだ。アメリカにとって戦争は日常の一コマであり、派兵軍の爆弾処理班はひとつの職業。そういう描き方なのだ。

確かにやっぱり、ジェームスは狂ってる。ジェームスは凧を選ぶのだから。でも再び戦地に降り立ち、防護服を着て爆弾処理に向かう彼に、こみ上げる感情は「頼む、死ぬな!」でしかない。アメリカ人的に言えば、神様、彼を死なせないでください。

排他的宗教観で正義を押し付けるアメリカ政府なんて大キライだし、強いアメリカを妄信して従軍する兵士だって大キライだ。

でもこれはSFなんかじゃなく、今(2008年現在)起きてる現実なのだから、そう祈らずにはいられない。
ピアスあいてる?ブログネタ:ピアスあいてる? 参加中


某ブログで出てきた言葉が、ずっとひっかかってました。
ピアスは退廃的な美だ、という話。

退廃的美学とは何だろう。
自分も実は若い頃そーいう世界にいたんですが(笑)、もちろん論理的な帰着というよりは感覚的選択でした。

単に退廃的美学、退廃派=デカダンスとは?って話になると、文学史、思想史的に19世紀~20世紀初頭の芸術至上主義や実存主義、タダイズムとかにまでさかのぼれちゃうわけで(笑)、こんなところでそんな話をしてもしょーもない(笑)。別にランボーもワイルドも読んでないし(^^;。

ただ、無関係ってわけじゃないのも確かです。
退廃的なモノに魅了される心理とは、保守的な価値観や革新的言動というものに対して、距離をおきたいという思想の裏返しともいえると思います。

学校で例えるなら、先生ウケの良い優等生はうさんくさくて偽善的に見えてしまい、かといって生徒会活動とかで学校側と対立したりする人たちも、うっとうしくて無様に見えてしまう視点。
(でもウチの高校では生徒会がもっとも退廃的でしたけどー(笑)。リベラリストは生徒会長だけ)

ちと強引に(笑)前者をクラシカル(保守)、後者をリベラリスト(革新)と言い換えるなら、退廃派はヤンキー(笑)。まあ、現実には退廃主義者はヤンキーもうっとうしいんですが(笑)、強引にモデル化するならそんな感じ?

で、これって、じゃあどんな主張なのか、というと「偽善もアンチ偽善もイヤ」なだけで、建設的な思想というのは存在しません。
主張がない主張、とはなにか、と言えばそれはすなわち、私はそれらと組みしないのだ、という「存在自体が主張と化する」こと、と言ってもいいんじゃないか、と思うわけです。

だから退廃的な立場の人は、ぱっと見それとわかる格好をしたがるし、享楽的な傾向に陥りやすいわけです。
(芸術至上主義は教義的芸術ではなく芸術のための芸術であるべきとする思想で、つまり社会ではなく個を強調する思想なわけです。ニーチェの実存主義もそう。ニヒリズム、ダダイズムとなるとちと過激すぎるが(笑))

自分それ自体が主義主張、というのは暴論ではありますが(笑)、近いものがあると思います。だから、自己を記号化し、愛を歌い、快楽を求める。

そして自己の記号化とは、ファッションのためのファッションを極めることであり、だからこそ肉体を衣服と同じように装飾することにも抵抗ないわけです。すなわちピアス、タトゥーは、退廃的価値観においては朝起きてパジャマからジーンズに着替えることとそれほど違わないわけです。

ここでさらに提起。存在そのものが主張化する人とはなにか(笑)。

そう考えた時に出てきた言葉は、なんと妖精(笑)。
妖精、妖怪とは、存在そのものが主張化した存在じゃないか、と思ったのはこないだ妖怪話を書いたから(笑)だけど。例えば河童は、水はコワイから気をつけよう、だし、森の妖精は、森は恐いところだよ、という啓示そのもの、といえます。

もちろん妖精や妖怪になろうとする人たちがいて、彼らが退廃的だった、という意味ではないのですが、存在論理、という意味ではとても似ている、と。

(妖精は別に主義主張があるわけじゃないけど、結果的に「自然に畏敬の念をもって接しよう」という思想になってる。土着伝承の形成原理とはすべてこの構造を持っているといっていいと思います。
教義的価値観ではなく、経験則的価値観が発露であり、世界認識の視点があくまで個にあるところが、とても重要な部分です。キリスト教的価値観が偶像崇拝を禁じるのも、このふたつがそもそも相容れない性質だからだろう、と思っています)

つまり、退廃的美学においてピアス、タトゥーをする人たちは、言動において主義主張を表す「人」から、妖精へとシフトした(したがっている)人たち、という見方も…あながち遠すぎるわけじゃないと思ったんです。

このピアスをすると、あなたも妖精になれる。

もしそう言われたら、なんとも魅惑的で享楽的退廃的な感じがしません?極端な帰着ではありますが、ピアスをするかしないか、という葛藤は、コレに似た世界なのではないか、と思うのです。

ただ、それは見方を変えれば単なる合法ドラッグでしかない、と言えるかもしれません。

人は人です。妖精にはなれない。
ニーチェ的にいえば、真理とは、あくまで戯れるものであって、なるものでも、なれるものでもない。

だから、オレはピアスはしないんです…たぶん。オレはただの、人ですから。

PS:
TVドラマ「GOLD」のワンシーンで、ふとそんなコトを思いました。
自分の愛を貫くために愛した人と同じタトゥーを入れた少女。母の望むオリンピック選手よりもずっと、愛が大事なのだ、と。だけど、母の苦悩とトラウマを知り、母の力になりたいと思った時、自分はタトゥーを入れたがために母を助けることができないことを思い知ってしまう。
愛と宿命とどっちが大事か、と、それを(タトゥーで)主張することは、実はまったく関係ないコトに彼女が気がつき、タトゥーを入れた肩を哀しげに見つめる姿が、なんとも胸に来るシーンだったもので。
PS2:
これ、最後まで読む人いるんか?(笑)