※この記事には、ガディエル・ショアの『合気道小説 神技 Kami-Waza(BABジャパン)』の物語の核心に触れるネタバレがあります。未読で今後読む予定の方々は、他のサイトへ移動してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 合気道を題材とした小説としては、津本陽の『黄金の天馬(文春文庫/PHP文庫)』が有名である。おそらく、著者の創作や脚色を含んでいるためと思われるが主人公の合気道創始者の氏名は高島隆之助であり、植芝盛平ではない。

 

 外国人が著して日本語に訳されたものとしては、雑誌『秘伝』で有名なBABジャパンから発売された『合気道小説 神技 Kami-Waza(ガディエル・ショア・著/永峯知佐登)』がある。この本を読み通してみたのだが、合気道経験者にも合気道に興味を持つ合気道未経験者にも全くオススメできないシロモノだった。他の武道を選択せずに合気道を選んで修行している人のほとんどは、和合や調和、平和や友愛等に関心を持つ人が多いと想像される。この小説の暴力と支配が延々と続く描写は、合気道の好きなほとんどの人にフラストレーションと生理的嫌悪感を抱かさせるであろう。ちなみに著者は、養神館合気道の6段であり、合気道のできない人、合気道のわかってない人ではない。

 

 この本のダメな点を要約すると、

 

①醜いまでの誤植の多さ

②救いようのない暴力・虐待・サディズム・監禁・支配・殺傷・裏切りの描写

③合気道の神技を曲芸(アクロバットあるいはスタント)との同一性で描写したこと

④実在した人物にフィクションを付け足すことの危険性

⑤重要人物と重要アイテムが結局どうなったのか、読者の判断に任せて終わる無責任さ

⑥合気道は他の武術・格闘技とは次元の違う強さを持つと描写したことで他の武術・格闘技を蔑んでいるようにしか読めないこと

 

 となる。

 

①「醜いまでの誤植の多さ」

醜いとまで言える誤字・誤植の多さである。逐一ここで例を挙げるつもりはないが、読んでいて相当のフラストレーションがたまる。「大本教」と書いてあったかと思うと次の章では「大元教」になっていたりする。出版前にまともにチェックする人物がいれば、誤植は3分の1くらいには減っていたと考える。

 

②「救いようのない暴力・虐待・サディズム・監禁・支配・殺傷・裏切りの描写」

合気道を題材にしておきながら、この点が最も酷評となる点である。読んでいて晴れやかになるシーンはほぼなく、脱出不可能な施設と絶対的な支配の中で、10代の少年たちに無慈悲なシゴキや暴力をふるう描写ばかりで、これを読んで感動する人がいるのかと疑うばかりである。これが成人向けバイオレンス空手マンガとかならばわかるが、和合を愛する合気道がこんなに暴力的で残酷な方法を取らないと神技のレベルに達することができないとは、自分には思えない。380ページ超を読んでいて、救いようのなさに本当に心が萎えた。

 

③「合気道の神技を曲芸(アクロバットあるいはスタント)との同一性で描写したこと」

この小説内の架空の人物として、合気道の中興の祖のような存在のアイキ・リビリウム創始者、ジャック・パティエを登場させている。彼の職業はスタントマンであり、合気道の神技を、曲芸(アクロバット)やスタントと同類のものとして描写している。西洋の器械体操に見られるような跳んだり跳ねたり宙返りしたりを、あるいは初代引田天功が見せた大脱出や日本のテレビ番組『SASUKE』に見られるようなステージクリアを、合気道の神技の訓練に必要な順路として描写している点に納得がいかない。合気道にしろ、大相撲にしろ、日本の身体操作は「地に両足が着いた状態」に美意識を感じており、人の足が大地の邪気を払ったり、大地のエネルギーを足からもらうような信仰へと繋がっている。悪いが、著者の描写する神技の発動は、「地に足が着かない状態」であり、「浮き足立った状態」であり、「きりきり舞い」であり、「てんてこ舞い」であり、「アクション映画のワイヤーアクションからの類推」でしかない。

 

④「実在した人物にフィクションを付け足すことの危険性」

白戸三平の劇画や安彦良和の歴史マンガも同様であるが、実在する人物とフィクション上の人物を交錯させることで、エキサイティングな物語を綴ることに成功している。この『合気道小説 神技』にも、実在した人物である植芝盛平や出口王仁三郎が登場する。著者のガディエル・ショアが、植芝と出口の会話を実際に見てメモしているはずがない。この小説を読んでいると、この本に出てくる事件や、植芝・出口の行動や会話の内容について、あたかも史実のように受け取られかねない描写が多い。この本はあくまでフィクション(小説)であり、著者の脚色や創作が混入していると知っているにもかかわらず、である。著者は、「合気道の神技は、このようなルートを通らないと開祖以外再現できないのではないか」と言うファンタジーを含んだ仮説を公表してみただけである。この小説を鵜呑みにすると、キレて制御不能になって相手を半殺しにする体験を通らないと、合気道の達人になる入口にも立てないとも受け取れ、争わないことや調和することを美徳とする(達人にはなれない)合気道修行者をからかっているようにしか思えない。自分は、この著者のいる合気道の支部には絶対に所属したくない。

また、道場の天井に足跡があるエピソードを次元を超えた神技と結び付けて描写しているが、自分の知っているエピソードは、合気道の技で投げられた受けの足が天井に当たり、板が破れた話である。大工の足跡が板に残った可能性や、のちに誰かが足跡のある板に入れ替えた可能性も含めて、批判的に考えなければならない。

 

⑤「重要人物と重要アイテムが結局どうなったのか、読者の判断に任せて終わる無責任さ」

ジュロームはその後どうなったのか?情報者(インフォーマー)はその後どのように行動し、ジュロームと接触したのか?マックスの安否は?生きてたとしたらその後どうなったのか?イーブの安否は?ジョージは再起不能なのか?「ザ・ロスト・ブック・オブ・スキル」には、どのような内容が書かれていて、その後どのように活用されたのか?等について全く描写されておらず、読者の判断に委ねたかたちで終了している。これは謎解きをせずに終わった推理小説のようで、ものすごくフラストレーションがたまる尻切れトンボの状態である。ひょっとすると、この小説が大人気になり、続編を執筆するつもりが著者にはあったのかもしれない。

 

⑥「合気道は他の武術・格闘技とは次元の違う強さを持つと描写したことで他の武術・格闘技を蔑んでいるようにしか読めないこと」

後述するが、この本のオリジナリティは超弦理論(超ひも理論)のストリングと合気道や大本教に登場する言霊(ことだま)を結び付けて、それが神技を発現し、3次元(時間を含めれば4次元)を超えた動きをするとしたところにある。とすれば、次元の異なる動きのできる唯一の武道だということになり、全盛期の武田惣角だろうと、國井善弥だろうと、ヒクソン・グレイシーだろうと、エメリヤーエンコ・ヒョードルであろうと勝ち目はない。仮に、タイムマシンで植芝盛平を現代に連れてきたら、UFCのルール内で観客の前で戦ったとしても相手の体重に関係なく王者になれる。自分は、そうは思っていない。このような描写を進めることで、他の武道や格闘技(空手道や総合格闘技など)を蔑んでいることに気付かないのだろうか。

かつて津本陽が佐川幸義を描写した作品群の中で、植芝盛平や合気道、武田時宗や時宗系大東流を見下したかのような表現があり、苦言を呈したことがある。

 

『孤塁の名人』『惣角流浪』『山嵐』を読了! | 武術とレトロゲーム (ameblo.jp)

 

この『合気道小説 神技』でも、236ページにまるで現場を見てきたかのような以下の表現があり、大東流の悪いイメージを植えつけようとしている。

「大東流の師、武田惣角は死神のように恐ろしく、残忍な男であった。」

いや、こんな残忍な小説を書けるあなたの方が恐ろしく、残忍であると思うのだが・・・

 

 

 

 先述したように、この本のオリジナリティは「超弦理論(超ひも理論)」の「ストリング」の振動と合気道や大本教に登場する「言霊(ことだま)」の響きを結び付けて、それが神技を発現し、3次元(時間を含めれば4次元)を超えた動きをするとしたところにある。

 「超弦理論(ちょうげんりろん)」と「超ひも理論」は全くおなじものを指しており、英語では「superstring theory(スーパーストリング・セオリー)」となる。「ストリング」が振動することが要点なので、「ひも」よりも「弦」の方が訳として適している気がする。この小説では「string theory(ストリング・セオリー)」と表現されているが、南部陽一郎ら複数が提唱したのが「string theory(ストリング・セオリー)」で、それをさらに拡張したのが「superstring theory(スーパーストリング・セオリー)」というのが自分の認識だった。この小説での描写はむしろ「スーパーストリング・セオリー」の方ではないかと感じていたが、改めてウィキペディアに目を通して見ると、最近では「超弦理論」や「M理論」を含めて広義での「string theory(ストリング・セオリー)」と表現することが多いようである。

 

 この小説の巻末にある「著者造語解説」の「ストリング(string)」には、以下ような説明がある。

「物理学における最新理論から引用されている用語。『ストリング・セオリー(string theory)』、もしくは『超弦理論』『超ひも理論』と呼ばれる理論の中で提唱されている。全ての物体の最小単位が“紐=ストリング”であるという理論。」

 

 自分の合気道の師匠の師匠を乙師範とし、師匠の師匠の師匠を丙師範とする。自分はかつてアップした記事の中で、丙師範が「色を見るようになったら一人前」と発言し、それに呼応して乙師範が「活動中のちょっとした時間に目をつぶると、赤やら緑やらの、それこそこの世で見たことのないような美しい光を見る。その光を見た後は、何とも言えない幸福感に包まれ、疲れが回復している。」と発言したエピソードを紹介したことがある。

 

師匠の師匠の師匠の言葉その2(合気道その12) | 武術とレトロゲーム (ameblo.jp)

 

 自分は、丙師範の「色を見る」と、乙師範の「光の体験」は全く異なる事象かもしれない可能性まで示唆していたのだが、今回紹介した小説の210ページに以下のような記述があり、あまりにも乙師範の語った内容との共通点が多いので驚愕した。酷評した小説を読了して、一番収穫になったと思ったのは、この点であった。

 

「最終的に君が《ス》に到達したとき、それは弾性のある、光り輝くいろいろな動きができるストリングとして見ることができます。それは信じられないほど魅惑的です。」