仏教の概念は、論理や言語を超えた体得や納得を必要とする側面もあり、素人には抽象的で難解なものも多い。

 一説には「空」の概念は、「無我」の概念を拡張・発展させたものとも言われる。

 「空」の方が、「無我」よりもさらに高尚な概念の気もしてくるが、両者とも素人にはわかりにくい。

 

 ただ、素人でも「無心」になる、「没頭」する、「夢中」になる、あたりは理解できるような気がする。プラモデル作りに「無心」になって、周りの音や風景が消え失せる…楽器の演奏に「夢中」になって、自分の脳が手指や呼吸器に命令を出しているとは思えなくなる…お経を音読することに「没頭」して、自分がお経なのか、お経が自分なのかわからないほど境目がなくなる…

 素人にとっては、この辺りが「無我」の境地のとっかかりかな、と思っている。

 

 ただ、日本人はもともと、「スタートは1から」と言う考え方があるように思う。最近、「0からやり直します!」と発言する日本人もいるかもしれないが、本来は「1からやり直します!」だ。

 日本語の「1階」はアメリカ英語では「first Floor」だが、イギリス英語では「ground floor」だ。そして、「2階」が「first Floor」だ。つまり「ground Floor」が「0」で、「first Floor」が「1」と言うことになる。

 

 この考え方で行くと、1つのことに「無心」になるのであり、1つのことに「没頭」するのであり、1つのことに「夢中」になるのである。「忘我」と呼ばれる言葉も、「無我」に近い語感だが、1つのことに「熱中」して「忘我」の境地に入るのではなかろうか。

 

 先述の「無心」等の概念は「1」を連想させる状態であり、「無心」とはいいつつ「一心」とあまり変わらないのでは、と思った。

 それに対して「無我」や「空」は、数字の「0」の概念を発見したインドからの「無」の概念を継承しているように思え、「1」さえ超えた「0」を目指しているような気がする。

 また、西田幾多郎やウィリアム・ジェームズの言う「純粋経験」も、「0」よりは「1」に近い気がする。

 「0」と言うのは、単に「実体がないと言うことを悟る」だけのことなのだろうか。

 さきほど挙げた「無心」「没頭」「夢中」「忘我」「一心」を超えたステージ、あるいは「無心」「没頭」「夢中」「忘我」「一心」等の概念へのこだわりを捨てた境地のようなものが、あるのだろうか。自分が辿り着けるかどうかは別の話として…