自分が尾崎豊を小馬鹿にしたり、茶化したりしてる訳ではないことは、過去の記事を読んでいただければわかると思う。

尾崎豊関係の記事 まとめ(改) | 武術とレトロゲーム (ameblo.jp)

 YOSHIKIは、ジャズ・ピアノを嗜む父から4歳のときにピアノを買い与えられ、クラシック・ピアノのレッスンを受け始める。小室哲哉は、3歳から12歳までのヴァイオリンのクラシック音楽の練習曲をレッスンしていた。坂本龍一は3歳からピアノを習い始め、東京芸術大学大学院音響研究家修士課程を修了している。SUGIZOは両親がオーケストラの団員であり、3歳からヴァイオリンを学んでいる。

 以上のように、日本のロックやポップス界には幼少期からクラシック音楽を学び、そこから羽ばたいていったアーティストも多い。その一方で細野晴臣や吉田拓郎のように、あまりクラシック音楽の影響を受けずに大成したアーティストもいる。

 尾崎豊は、後者であろう。幼少期に両親が共働きで、登校拒否(現在で言う不登校)も経験した尾崎豊がテレビっ子であった可能性は高く、テレビから流れる音楽の影響は少なくなかったと推察する。

 早い時期にそのことをお笑いのネタとして指摘していたのは嘉門達夫(現在の表記は嘉門タツオ)で、尾崎豊の『卒業(1985年)』の「行儀よく真面目なんてできやしなかった」のあと、石川ひとみの『津軽海峡・冬景色(1977年)』の「こごえそうな鴎見つめ泣いていました ああ~♪」へと歌が変わるものを披露していた。

 また、自分は尾崎豊の歌の特徴のひとつとして「メロディーラインを崩した演劇的独白」を挙げたときがある。

 

 

 

 改めて聞き直してみると、『15の夜(1983年)』の「とにかくもう 学校や家には帰りたくない」は、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの『港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカ(1975年)』にある「・・・アンタ あの娘の何んなのさ」に似ているし、近藤真彦の『ブルージーンズメモリー(1981年)』の「サヨナラなんて・・・言えないよ」にも似ている。『核(CORE)(1987年)』の「俺の目を見てくれ いったい何ができる? ねぇ ねぇ ねぇ」は、シブがき隊の『挑発∞(1983年)』にある「信じていいの・・・なんて止めろよ 感じてハートがちぎれそうさ・・・ もう迷わないぜ抱いてやる!」に似ている。もっとも、尾崎豊は1983年12月にデビューしているが。

 また自分はコード進行等の音楽の専門的なことはわからないが、『BOW!(1985年)』は、アリスの『冬の稲妻』に似ていると思うのだ。「否が応でも社会に」の部分が「あなたは稲妻のように」、「飲み込まれてしなうものさ」の部分が「私の心を引き裂いた」、「世の中のモラルをひとつ飲み込んだだけで」の部分が「You're Rolling' Thunder 突然過ぎた」、「鉄を喰え飢えた狼よ死んでもブタには喰いつくな」の部分が「忘れないあなたが残していった傷跡だけは」と言う訳である。

 

 

 生前の尾崎豊はブルース・スプリングスティーンやジャクソン・ブラウン、佐野元春や浜田省吾の影響を受けたことを公言していたが、他界したのちに岸田智史(敏志)や井上陽水らのフォークソングの影響が大きかったことが明らかになりつつある。『傷つけた人々へ』の「真実とはまるで逆へと」の部分は、岸田智史の『重いつばさ(1980年)』の「たとえ終りがあってもいい」の部分とメロディーラインが似ている。おそらく影響を受けたのであろう。尾崎豊は、テレビで『1年B組新八先生』を見ていたに違いない。

 

 

 また『群衆の中の猫(1985年)』の「誰も少しづつ生き方を変えて行くけど 求める愛の姿は変わらないから」のメロディーラインは、岸田智史の『ガール(1979年)』の「きみの悲しみは ぼくの悲しみ」の文字数を増やした形態のような気がする。デビュー前の尾崎豊は、岸田智史と声質が似ていたので、彼の曲をよくカバーしていたそうである。

 


 そして以前記事にしたように、『LOVE WAY(1990年)』と『FIRE(1990年)』のメロディやリズムは、井上陽水の『氷の世界』の影響を受けている。熱い『FIRE』と冷たい『氷』も対応しているように思う。『LOVE WAY』については、尾崎豊の元プロデューサーである須藤晃が、「尾崎豊版『氷の世界』」と形容していたような気がする。

 

 

 『永遠の胸(1990年)』の「Wow 人はただ悲しみの意味を探し出すために生まれたきたというのか」の部分は、シャーリーンの「愛はかげろうのように(1977年)」にメロディーラインが似ている。以前にも記事にしたことがあるが『COKKIE(1990年)』のイントロの楽器部分は、ビートルズの『Let It Be(1970年)』やリチャード・クレイダーマンの『渚のアデリーヌ(Ballade Pour Adeline)(1976年)』の前奏・間奏・後奏を連想させる。

 

 

 それからテレビアニメ『あしたのジョー2』が放映されていたのは、1980年10月13日から1981年8月31日のことである。尾崎豊は14、5歳の頃である。まずこのアニメのエンディング曲のタイトルが、いかにも尾崎が好きそうなものとなっている。タイトルは『果てしなき闇の彼方に』。そして、メロディーも尾崎が好みそうなものである気がする。矢吹丈と尾崎豊は、その黒くて長い前髪や生き急いだ点など符号も多い。当時尾崎は、テレビアニメ『あしたのジョー2』を見ていたんではないかと推測する。

 


 そして、そのちょうど1年くらい前にあたる1979年10月5日から1980年10月10日まで放映されていたのが、『スカイライダー』と呼ばれることもある『仮面ライダー(新)』である。当時尾崎は13、4歳と言うことになり、こんな子ども番組を見ていた可能性は低いと思われる。ところが、この番組のエンディング曲である『はるかなる愛にかけて』は、歌詞が過去形となっており、既にこの世にいない誰かを歌っているように聞こえるだけでなく「自由のために 愛のために 君は何に賭け 何と戦うか」と、まるで尾崎豊のことを歌っているかのように聞こえるのだ。「何に賭け 何と戦うか」の部分は、『路上のルール(1985年)』にある「何を主張し 掲げるのか」を彷彿させる。歌詞の「仮面ライダー」の部分を、「尾崎豊」に入れ替えて鑑賞してほしい。

https://www.uta-net.com/song/24590/

 

 

 それだけでなく、『スカイライダー』に変身する筑波洋の容姿を見ていると、黒くて長い前髪や、敵を睨む視線が尾崎豊とオーバーラップするのだ。

 個人的に、尾崎豊がカバーした『果てしなき闇の彼方に』と『はるかなる愛にかけて』は聴いてみたかった。

 

 最後に『forget-me-not(1985年)』について述べてみたい。この曲は10代のうちに3枚のアルバムを出すと言う目標がある中でなかなか歌詞が完成せず、レコーディングがギリギリとなり、いわゆる一発録りとなったことで有名なアルバム内で最後にレコーディングされた曲である。この曲の冒頭の「小さな朝の光は」の「小さな」の部分は、東鳩オールレーズンのCMソングの「小さな出来事」の「小さな」の部分とメロディーが全く同じではないか。また、「小さな朝の光は」の「朝」と「思い出の朝」の「朝」が呼応している。

 

 

 

短い歌詞なので、以下に掲載しておく。

小さな 出来事 小さな 思い出
オールレーズン オールレーズン
思い出の朝 東鳩 オールレーズン

 

 

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