実は、「躁」状態というのを「病態」だと、自覚している人はなかなかいない。

「気分の一種」という風に片付けられてしまうからだと思う。

考えてみてもらえば分かるのだが。
ブレーキの利かなくなって、キーを回してもエンジンが止まらなくなった車のことを。

ガソリンなくなるまで、走り続けるのよ。
肉体の消耗度のほうが、たまったもんじゃねぇわ。

躁病とか、躁鬱病の躁病態というのは、こういうものなのである。

だから「休め!」と言っても「休めん」のです。
黙って横になっていれば、とか、言われても、横になってられないのよ。
何か、わさわさして。

で、肉体は疲れ切っていても、精神の暴走状態は止まらない。
今度は、精神にブレーキをかける為に、必死で脳みそを疲れさせなければならない。

だから、文章を綴る。

文章を綴れなくなっても、まだ、眠れない。
だから、今度は、曲を書く。

精神は、出力を繰り返す。ひたすら繰り返す。

「休め」という言葉に従って、「休もう」と思っても休まらない。
思考が働かなくなっても、感覚にしたがって「曲」を綴る。

それでも休まらない。休まらない。

休息が出来ない肉体、というものは、かくも恐ろしいのだが。

相方であるチョチさんも、今、大変なんだろうなぁ。
ゆっくり休めないんだもんな。

肉体と、精神が分離する、というのは、かくも残酷な事なのだ。

かと思うと、僕の場合、完全な欝病のように、何も出来なくなっている状態に陥ると、
死んだもののように眠って、動かなくなってしまう事もある。

この極端な状態、というものは、かくも苦しいのだが、
おかしな事だが、この極端な状態でないと生み出せないものがあるということも、また事実である。

でねぇ・・・ふと思ったのだが。

躁病態、というのを、自覚できてない人が多いのではないか、ということ。
ていうのは、「無駄に元気」という人も、実は「軽躁」状態、ということが意外にあったりする。

で、明るく元気でパワフルで、妙にはつらつとしてるから、周りも、それを病気だと気づかない。

で、躁状態の人間って、結構、能力、高い人多いんですよね。
てのは、基本的に行動力もあって、休んでられないんだから、ポテンシャルが高いのよ。
ひたすらに休めない上に、「前向き」に行動せざるを得ないんだから、さ。

ただね、それに肉体が耐えられるのって、若くて体力があるうちだけよね。

でね、そういう人って、
たまに「自分は別に、特別なんじゃない。だから、頑張れば、他の人も出来るはず。」と
錯覚している人がいる。

これって、躁病や、躁鬱病の躁状態が作り出した暴走状態が
世間一般的に「あんまり理解されていない」ことも手を貸している。

つまり、人間の哀しさで、それが「自分の性格の一部」だと思い込んでしまい
さらに、それを元に「自分は普通の人間なのだから、他の人にもできる。」だと思い込んでいるだけで、
実は、その「パワフルで元気」な病態を、自覚していないからこそ、起こっているのである。

そうすると、その状態は、明るくイケイケの状態で、ひたすらに周りを元気付け、あおってしまう。
ひどいのになると「人の頑張りが足りない。」とか、平気で人を煽り立ててる人もいる。

困った事に、この病態にあるときは「自意識が過剰」になっていることが多いから、
ひたすらに、自分のものさしでしか考えられない状態に陥ってる事が多い。

しかも、暴走する「躁」は、この瞬間は、失敗さえも前向きに捉えてしまうから、
飽くなき「壁への激突」を繰り返しても、「自分の頑張り」を発揮して、反省がないことが多い。

で、僕が見るに、最近の企業人の多くは、この「躁状態」にある人間が多いのではないか、と思う。
いわば、自分自身で、暴走が止められない状態なのだが、その危険性を自覚していない人が
かなりの数、見受けられるように思う。

あるいは「強迫神経症」。
これは「欝」状態に近く、ベクトルが逆なのだが、自分がやっている事に、不安や完璧を期するあまり、
不安になって眠れなくなり、やはり、自分自身が止められなくなる状態だが。

つまり、日本社会のシステムや企業を動かしている「クリエイティヴィティ」の正体は、
暴走する「躁」と「強迫神経症」なのではないか、と思った。

暴走する「躁」は、経営者やカリスマなどの組織を牽引するタイプに多く、
「強迫神経症」は、技術者などの細かな仕事をこなし、細部を要求されるタイプに多く見られる。

そして、あまり、病態として意識されていない、暴走する「躁」状態こそが、
実は、今、一番、社会を追い詰めているのではないか、とさえ思う。

社会の発展や、クリエイティヴィティ、というものは、
実は、そういった状態により、支えられている「どうしようもない矛盾」もあるのだが。

しかし、周囲も、その「暴走する躁」の行動力は、
「頑張り」にしか見えないのだから、うかつに否定できないし、停止できないのである。

これもまた、躁状態、というものが、なかなか「病気」と分かってもらえない、というか、
「頑張り」なのか「暴走」なのか、傍からは全く見分けがつかない、という状態を作り出す。

だから「本人の気づき」という部分でしか、この状態を回避できなくなる。
或いは、「赤い靴」を履かされた人間が、肉体も精神も疲れ果てるところまで、
ひたすら、追い込まれないと、止まれなくなる。

こういった人間は、薬や酒の力でも借りない限り、本当に「自分」を強制停止できなくなる。

つまり、躁状態は、制御を喪い、暴走を続ける「原子炉」のようなものなのだ。
本当に、「冷温停止」の状態にまで持っていくのが、大変なのだ。

だから「酒や薬に溺れるのは、自分が弱いからだ。」などと、軽々しい発言をする人間に対して、
一言、物申しておきたくなってしまうのだ。

君に、止められない原子炉を、心の中に抱えた人間の苦しさが、わかってたまるか、と。

今、社会で、本当に理解が必要なものと、病態への正しい理解が必要なものは、
「正常人の中に紛れ込んだまま、暴走状態を続けている躁の存在」なのである。

病気に見えない状態で、周りに強力なエネルギーを放出し続ける。
「軽躁状態」であるはずの僕でさえ、こんなに苦しいのだから、
酒や薬を飲みまくっても、エンジンを停止できないタイプの重度の躁は、いずれ、肉体さえも破壊する。

そして、音楽を追う人たちの多くは、なぜか、その「狂気」の生み出す暴走に憧れる。
その「狂気」が導き出す、巨大な核エネルギーのような「クリエィテヴィヴティ」に憧れ、
焦がれるのかもしれない、と思うのだが・・・。

ただし・・・ね。
自らの狂気をコントロールできない人も、たまにいるし
そういった人は、身体を酷使しすぎた挙句、ぱたりと途中で倒れる定めなのだ。

人間の肉体の限界まで酷使した暴走状態を続けているわけだから、ねぇ。

なまじ、僕は体力がないほうなのに、これほどまでに動き続けてきたわけだから、
僕の中の肉体の燃料は、持続力を持たなくなってしまっている。

だから、今の僕は、競馬で言うなら「マイラー」「スプリンター」になってしまっているのだろう。
つまり、長い距離を走るだけのスタミナを無くしてしまっている状態だから、
一瞬で事を決するような仕事しか出来なくなっている。

だから「瞬発力」というか、秒殺の切れ味で勝負せざるを得なくなっているのだ。
たまーにライブをやっている、というのは、
過去の経験や蓄積を元に「秒殺」で勝負を決める類の「慣れ」を手に入れているからであって、
会社に行っても、体力が3日と持たないくらいの、肉体になってしまっているのだからねぇ・・・

余力0のぎりぎり状態になっても、まだ生きていかなければならないと考えると、
今、まさに、将来は不安の限りである。

なにせ、時間ぎりぎりまで、目一杯働かないと、一生懸命に働いているように見えない、という
「見かけ」の労働時間の長さで、社会が一生懸命働いているか否かを、単純に図るこの日本においては
「サボってる」とか、「遊んでいていいご身分」ですこと、と罵られかねない。

挙句の果てに、もし、時間単価を上げようとしても、
「悪い事して、金を巻き上げてる」とか「バカ高い金を取りやがって。」と罵られかねないのである。

いや、総量は同じなんだって。
人の2倍、3倍の内容のことをやるから、技術職は「時間単価が高い」のであって、
プログラマーとしての「時間単価」を散々削られまくって労働してきた僕は、
「派遣労働」としての金額に見合わない「労働」の果てに、散々搾取されまくって、
その「労働に耐えうる肉体」を喪ってしまっているのだ。

精神は、それでもまだ走ろうとする。
肉体は、既に、それを支えられなくなっても。

それでも、僕は、まだまだ、これから生きていかなくてはならない。
さあ、どうやって生きていこうか、と考えた果てに、
いろいろ知恵を絞って、自分の生きる糧を見出していかなければならない状態なのである。

うーむ。なかなか悩ましい。

文章や、音楽というものも、実はその一環になって行ってしまうのかもしれないのだが、
これは、本当に実力の世界なので、またまた、困ってしまうという、このジレンマ。

だいたい、どこに行っても「搾取」構造ばっかりじゃないか。

このままでは、本気で生きると言う事を考えた場合、
僕は、アメリカやフランスにでも行って、自分の能力を認めてくれる人たちと、
音楽による仕事でも始めなきゃなんなくなるぞ、という状態まで追い込まれているしねぇ・・・

だから「救われない」と言う訳ではないのだが、
思いっきり元気を使いまくって、ぼろぼろの身体でも、
まだ、とりあえず、生きていくだけの事を、何とか考えられるだけの「前向き」が残っているのが、
救われない性分の「躁」なのでもあるが。

だから、まっこともって、たまに来る「欝」が、邪魔でしょうがないのである。
僕の「欝」は、計算外のところで「自分を強制シャットダウン」したまま目覚めない、とか
今度は逆に「冷温停止」のまま、再起動しなくなる状態がすこぶる長いから。

えーと。

おかしくなったWindowsで、幾ら、電源ボタンを押してもシャットダウンしないくせに、
一回、シャットダウンすると、何度、電源ボタンを押しても、まともに動かなくなるとか、
そういうので、イライラした事はないだろうか。

躁鬱病とは、例えて言えば、こういうものだ。
OSそのものが、コントロールできなくなる、と言ったらいいのかね。

僕と付き合うと言う事は、いわば、そういうことなんだよね。
現実の僕と付き合うと、よほどの人でない限り、多分、相当、イライラすると思うよ。
思ったように、動かないんだもの。

だからさ・・・「偽装された狂気」をファッションのように身に着けても、
悪いけど、僕らの目は、騙せないんだよね・・・。
無理やり吐き出そうとしているものと、
それが、どうしようもなくて、勝手に吐き出されてくるものの違いって分かるかなぁ・・・。

あのね。
「狂う」って事に憧れて、ひたすら歌詞の中に「俺は狂いたい」とか、ひたすら書いてみたり、
「狂気の耽美」みたいなものを、ただひたすらにばら撒いてる人たちに、ハッキリ言わせてもらうけど。

あんまり、僕らの前で、そんなこと言っても「何の説得力」もないから。
君、どう考えても、まともな人間が「精神病」の振りをしているだけの「偽りの狂気」じゃないか。

僕は、ロックという「強迫神経症」の中に紛れ込んだ、
珍しいタイプの「暴走する躁」と「沈黙する欝」を抱えているんだけど、
だからこそ、本当に狂気を抱えている人なのかどうかっていうのは「空気」だけで分かるんだよ。

普通の人がね、そんなものに憧れたからといって、何も、努力して、狂おうとしなくてもいいんだよ。
苦しいだけなんだからさ。

でね。

君の周りにいる人で、エンジンかかりっぱなしの人がいるようなら、
そして、その人の存在が、仮に君を追い詰め、苦しませ、焦らせてしまうのだとしたら・・・

歩調を合わせられる所だけ、きちんと合わせてあげればいい。
だって、君が、頑張りすぎると、君自身も苦しくなってしまうだろうから。

だから、僕は、なるべく、潔癖である事をやめようとしているのだ。
他人を追い詰め、焦らせてしまう事や、眠れぬ僕に、無理に付き合ってしまうことのないように。

お互いが、うまく行くためには、無理をしない事だと思う。

それに、他人を許せなくなった段階で、「潔癖症」もある種の病気に等しいのだ。
自分が、こうあらねばいけない、と思うのは、いくらやってもかまわないのだと思うが、
他人に対して、事細かに、どうのこうのとなり出した段階で、それも立派な病気になっていく。

他人を傷つけるストレスの発散よりも、僕は自分を傷つけるほうを、まだ選ぶよ。
僕の暴走も、ある意味、自傷行為に近いという事に、気づいてる人は何人いるのだろうか。

自分に刃を向けなくても、自分を追い込み、追い詰める事もまた、立派な自傷行為なのである。
精神の救われなさ、というものは、そのようにしても発揮されるのだ。


へっへっへ、↑、これが「徒然なるペンペン草」流のパフォーマンスだ。
これ、聴いて欲しいんだよな、というコマーシャルでもあるのだから、
著作権著作権とあまり言い過ぎると、あんたの曲、金出しても聴いてくれる人いなくなるよ。

だいたい、世間にはこういういい曲もあるのだ、と紹介してくれる人など、
最近、いなくなってるわけでさ。

馬鹿みたいに権利権利って騒ぐから「紹介」してくれる人が、どんどんいなくなるんだよ。
これもまた、目先の小金にこだわって、自分で自分の首を絞めてる事に気づかない証拠だ。
コマーシャルや洗脳で騙されて作ったブームなど、
所詮、偽者であって、本物の持つ「驚異的な持続性」や「普遍性」がないのだよ。

さて、僕は、別に、僕は、この文章を読む人間や、僕の音楽を聴いてくれる人に、
僕の重荷を押し付けて、楽になりたい、という訳ではなくて、
「躁鬱病患者のある病態における、冷静な記録」として残しておきたいだけなんだよね。

いわば、読み物として、面白がってもらえればいいのである。

それによって「へぇ、躁状態ってのは、そんなに苦しいんだ。」とか
「自分の理解が及んでいない部分もあったんだなぁ。」と気づいてもらう事で、
実は、社会の局面で、他に苦しんでいる
「暴走する躁」を抱えた人たちへの理解が深まればいい、と思っているのである。

だから、ちょいと、僕の文章を重苦しいとか、堅苦しいとか、感じる事もあるかと思うのだけど、
そういうのを、和らげるだけの「心の余裕」くらいは、少しは持てるようになったのだ。

逆に言えば、それは、同じ暴走状態を抱えた「躁」患者の人にも、一つのメッセージになっている。
君は、今の君のままでいいから、それでも、社会の役に立つ事はできるんだよ、とね。

元々、君は、他の人よりも膨大なエネルギーを抱えた「原子炉」のようなものだ。
それは、君の「苦しさ」でもあるけど「いい面」でもあることも忘れて欲しくないのだ。

E=MC^2
それは、無限大のエネルギーを秘めているわけで、
正しく使っている時には、それは、莫大な量を放つ無限のエネルギーを生み出すのだ。

あとは、社会に生きる上で、どう折り合いをつけ、どう制御するか、ということを
必死に考える必要があるということでもある。

そして、周りの人も・・・一分一秒の遅刻も許せないような厳しさも結構だが・・・
遅れたから、相手をだらしない、ルーズだと罵る所まで行ったら、それは立派な精神病だ。
悪い面を一つ捉えて、全否定するよりも、
よい風にそれを生かせないか、と考える事を忘れてはいないか?

おおらかさ、まで喪った社会など、生きにくいだけだよ。
だから、アメリカは、あんなに神経症大国なのだから。
経済だろうと何だろうと、極端な潔癖症が生み出した、行き過ぎた「合理性」へ帰結する。
だから、何もかもそのマネなんかやってたら、こっちが病気になるぞ。

自分を許せないならともかく、他人を許せない心、というのは、社会をぎすぎすにするだけだ。
君のその過剰な「攻撃性」も、それもまた、一つの「狂気」の発露だと知れ。

それに名を成したい、と思っている人間の多くは、大概、過大なエゴを抱えているものだ。
だから、他人が自分の思うとおりに動かない事を、散々罵り、わめく。

「狂」という感じを見てみたらいい。

「けものへん」に「王」と書くのである。
つまり「過大な自意識を抱えて、他人を意のままに動かそうとし、他者を傷つける状態」をこそ、
「狂う」というのである。

暴走する「躁」と、沈黙する「欝」と「潔癖症」と「強迫神経症」が対立する世の中は、
かくも、ぎすぎすする。

それが、この「現代社会」が生み出した「自意識過剰」の対立の「軋轢」や「ストレス」による
「何べん言っても、皆して都合勝手な事ばっかやって、さっぱりまとまんねぇ」っていう状態だ。

ただ、俺が俺が、を主張するための余計な「自意識過剰」なら、さっさと捨ててしまえ。
そんなものを、ばら撒かれても、目障りだし、じゃまっけでしょうがないだけだ。

今更、社会は、「俺が俺が」って騒いでるだけの困ったちゃんを、
いつまでも、見ていたいとは思ってない。

俺が俺が、しか主張できない人間ってのは、単なる「凡人」なんだよ。所詮。
本当の狂気は、できもしないようなこと、ありもしないようなことに捕らわれ、
それに執着して、離れられなくなってしまうのだ。

しかも、ごく自然に。

君が生み出してる「似非狂気」は、まともな君が必死の努力で生み出した「努力の結果」であって、
そんな無駄な努力など、誰が見たって「見せ掛け」だとわかるようになってるんだよね。

だって、ほら、周りには、こんなに「自覚のない狂気」があふれてるじゃないか。
その「異常度合い」からみたら、君の「似非狂気」など、まだまだ足元にも及ばないのだ。

そして、健康な人たちへ。

どうか、周りで「自覚のないまま暴走している人間がいた」としたら、
スルーなどせずに、止めて欲しいのだ。
それが、本当に、あなたの大事な人だと思うのなら。

なに?上司が、訳の分からない事を言って、止められない?
そういう上司は、まともに付き合うと疲れるだけだから、
「うーむ、能力はともかく、人間の修行がまだまだできとらんのだな、
ふぉふぉふぉ。この阿修羅めっ!」と、心の奥底で「おこちゃま」扱いにして、
君を個人攻撃する話は、
「言われてる事は事実だから仕方ないけど、個人攻撃はこいつの虫の居所なだけだから。」と
半分に割り引いて聞くといいですな。

「言われている事のポイント」ってのが、その人の「無意識のこだわり」なんだよね。
つまり、自分に是非を問うてくるポイント、ってのは、その点のこだわりということを分析すると
その自分を責めている人間の性格は、分かりやすいから、容易く透けて見えてくるよ。

あとは、「本当に大事な事」だけやって、頑張んなさい。
「自覚のない病人の苦しみ」を、無制限に君が引き受けて、君が苦しむ理由は、さっぱりないんだから。

社会に紛れ込んで、自分は「まともだ」と思い込んで
「他人を攻撃する精神異常者」が放置されているのが、あまりにも増えすぎてるのが、
見ていて、せつないといえば、せつないのであるがね・・・

ああ、自我だ、自分なんて、何て、重苦しい存在だ。くだらん、くだらん。

しっかし、まとまりがない文章だなぁ。だから、自分で嫌になるんだよな・・・
今、推敲したり、論文形式では書けんから、
とにかく、放出しといて、あとで本にする時にでも、きっちり推敲でもするかい。

このまま書いても、ある種の「ドキュメント」だけどね。
ちなみに、コクトーの「阿片」ていうエッセイも、実情としてはこういうものなんだけどねぇ・・・。