8月16日午後5時
周防大島安下庄の花火大会の日の夕方
花火の前に虹が出ていました。
<教える-教わる>の関係から、一人ひとりが結び合った関係に。子どもも大人も。 そんな願いを込めて『むすび』。
木村学習塾通信『むすび』
2023.8.25. (459号)
本物を届ける
アーサー・ビナードさんが子どもたちと詩のワークショップを茅ヶ崎で一年ほど続けていて、この夏休みの合宿を機に定形のものに挑戦する様子をラジオで聞きました。(8月14日放送 『アーサー・ビナード ラジオ ぽこりぽこり』 文化放送)これはもうわくわくする一流の授業で聞いていてお話にぐいぐい引きこまれていきました。
まず、合宿だから定形を題材にしたということにちゃんと大きな意味があったのです。
五七五という定形は器。俳句にはその他、季語や切れ字が必要というルールもあり、学校でそんな風に教わりますよね。学校はまず器を教える。でもその器から出発して作品を作ろうとすると「発見が死ぬ」と。発見がクッキーの生地とすれば一生懸命ねっていって、どんな風になるかワクワクしているときに型を持ってきてバンと型抜きする。大切な発見がありふれた型に切り抜かれ死んでしまう。
器は表現の本質と一切関係ない。そういう危険があるから、定形は取り扱い注意。合宿ならば時間をかけてあらためて定形を崩すことができるから、という理由でした。創作には発見が大事なんだ、発見からスタートしていかなければいけないんだということを子どもたちに伝えるために。
30分の番組なのですが、お伝えしたいことがまだまだいくつもあります。そんな中から俳句と川柳に違いがあるのかを作品を読むことで子どもたち自身が感じ取り言葉にしていく様子にも驚きました。まず、子どもたちと一緒に読んだ川柳は鶴彬(1909~1938)の作品。
足をもぐ機械だ手当もきめてある
万歳とあげて行った手を大陸において来た
屍のゐないニュース映画で勇ましい
手と足をもいだ丸太にしてかへし
フジヤマとサクラの国の餓死ニュース
反戦川柳作家と言われている鶴彬。小学生と一緒にこうした作品を詠む。私は、えっ、こんな激しい現実をつきつける作品を小学生に!とまず驚いてしまいました。
川柳が確立するずっと以前から「落首」というのがあり、権力者が嫌がるような表現を匿名で辻に貼りだすということを先人達はやっていたそうで、これが川柳の起源。子どもたちの鶴彬の作品の感想は「怖い」「人っぽい」。川柳は人、世間、人間の営む世界を切り取って表現するものという本質を子どもたちは作品を通じて気づいていくのです。
そしてアーサーさんは現在この川柳の本質は守られているのかと、サラリーマン川柳を取り上げて比較していきます。1985年の天声人語に、第一生命の社員から川柳を募ったところ「なかなか活のいいのが集まった」とサラリーマン川柳の始まりの作品が高い評価で取り上げられているそうです。
こわごわとパソコン睨む50坂
割り勘で酒飲みながら部下叱る
久々に帰る我が家に席はなし
こちらはおよそ40年前のものですが、鶴彬を詠んだ後では愕然とします。「あるある」と共感はできそうですが、いわゆる「自虐ネタ」。とても内向きで小さく、世間に訴えるものなどなにもありません。でも、川柳ってこういうものなんだとずっと思っていました。ひとつのジャンルということではあるのでしょうが。一方鶴彬は真逆で外に向かう。外に向かうと巨大な組織、権力などと対峙することになります。
私たちは何を大事に生きようとするのか、どちらを向いて生きていくのか。時代が変わると見える風景も全く違う。そして何より怖いのは、違ってしまっていることになにも気づかないで過ごしていること。子どもたちと一緒に勉強している身として、本質、本物をちゃんと知り最大の配慮をして子どもたちに届けていく。その努力を怠ってはいけない。時代という大きな波には逆らえないと時代のせいにしない力を持ちたいと、アーサーさんから教えられました。
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