日本縦断セミナーの総括の途中ですが・・・。
じつは毎週、火曜日と木曜日はドッ!っと疲れてしまっていて、9、10時間も寝てしまいます。
いつも、何故だろう? っと思っていましたが、今日のクタクタに疲れている火曜日にその謎が解けました。
じつは前日の月曜日(含・水曜日)が、一日中空手漬けだからです。
昨日の月曜日には、わたくしの練習相手になってくれているボブ四段と、朝の十一時から道場で棒術の研究を午後の三時までの四時間・・・。
その後に遅い昼食をとって、二十分ほど仮眠をして、その後に少年部と成人部の指導と続き・・・。
帰宅して遅い夕食をとって、ドッタ! っとソファーに倒れこんでTVをつけて、ボーッとしていると、早や真夜中。
急いでベットに入って、目が覚めたら明朝の十時前です。
このように月・水曜日の空手漬けのために、翌日の火・木曜日は動きが鈍い日となるのだと、ようやく気付きました。
さて・・・。
十一時から三時まで、延々と四時間も一体何のために、どんな棒術の稽古をしているのか? っと言えば・・・。
日本縦断セミナーで一か月空手三昧の生活をした後では、わたくし如きの鈍い人間でも、神経が武術的にビンビンに研ぎ澄まされていますから、道場で出来る限り自分と向き合う稽古をすることで、もう少し高みに行けるのではないか?! っという淡い期待があるのです。
じつはそのかいあってか・・・?
昨日の月曜日に沖縄棒術の元っとなる唐手・佐久川が移入させたであろう、槍術の形の原型をとどめる棒術の形を探し出し、形の解明までを果たしました。
数々の逸話から推測するに、1801年に首里の武士たちが正式に集団のカタチで、当時は清王朝であった中国に渡った時に唐手・佐久川もその集団の一人として渡海して、その後1804,5年ごろに沖縄に帰国したはずです。
この事柄に関してはすでにいまは無き、月刊・空手道でわたくし・新垣清は明確に発表しています。
その際に移入させたのが、下表の15の形です。
すなわち、
中国清王朝軍
の
漢人部隊
(緑営・漢人八旗)
の
軍事教練
における
徒手格闘術
です。
その際に佐久川は、軍事教練としての槍の形も移入させたはずです。
その槍の形を元として、佐久川の第一の弟子とされる山根・知念が棒の形を創作し、それが「佐久川の棍」と呼称されるようになりました。
しかし、
佐久川の移入したのは軍事教練、
すなわち
戦場での主要な武器である
槍の操作術
です。
棒の操作術ではありません。
薩摩の支配下に置かれた琉球王国では、実質上の武器の携帯は禁止でした。
特に、槍などのかさ張るものはそうだったでしょう。
そのために、山根・知念は佐久川の槍術の形を、棒術として変化させた形を創作して、伝えたと思われます。
以上は、わたくしの(知的?)推察です。
極論すれば、ただの木の枝である棒と、その先に鋭利な鉄製の刃をつけた槍とでは、操作は同じようでも、決定的な違いが存在します。
それは、棒ではただの打ちとなる技が、槍では切るっという技となることです。
さらに突きでも、棒ではただ突くという技ですが、槍では
突き・刺す
という技になるという違いです。
動作的には同じですが、相手に与える威力というものは決定的に違いますし、操作する動作(技)にも自ずから違いがあります。
特に違うのは、突きに関してです。
棒の打ち技と、槍の斬り技では上から撃ち落とすという動作において同じですが・・・。突き技の場合は、相手を単純に突くという棒と違って、突き刺す槍の場合には、刺した槍を抜く動作が求められます。
ならば唐手・佐久川が移入させた槍術には、この突き刺しと同時に抜く動作が、必然として存在したはずなのです。
では現存する沖縄古武道の棒術の形において、相手の身体を突き刺して、さらに
突いた槍・棒を相手の身体から
引き抜く動作・操作(技)を
包括しているもの
があるのか?!
そのような形が存在すれば・・・。
わたくし・新垣清が常々主張している、
沖縄棒術の形は、
もともとは唐手・佐久川が1804,5年ころに移入させた、軍隊における槍術の形(套路・路牌)を元にして、
沖縄の武士たちが創作したものである!
っというものの確かなエビデンスとなるはずなのです。
そして、それは確かに存在するのです。
今回、その技術的、歴史的過程が明確になりました。