前ブログ、目的のごく一部は、ようやく達成できたのかな? で記したように、せっかく大雪の中を道場に来た生徒たちなのに、稽古を開始させずに熱心に話し込んでしまっていたのです。
わたくし、稽古の終了太鼓が鳴った後に、オフィスに現れた面々にカミナリを落とそうか? どうしようか? っと悩んでいたのですが・・・。
そのうちの一人(まぁ~、張本人です・笑)が、自分が行うレクチャー内容を披露して、皆に検討・批判をしてもらっている内に、熱中してしまったということを聞いて、怒鳴るのを止めました。
そして他の生徒を「早く着替えないと、風邪をひくから・・・」と、ロッカー・ルームに追いやり、そのまま空手着の上に上着を羽織るだけの彼と少し、ハナシをしました。
じつは、オレ(わたくしのことです)は怒ってはいない。
ってか・・・。「ナンか、感無量なのだ」と。
わたくしが、ここアメリカのユタ州のソルトレイクシティーで道場を開いて、早、四十年ほどにもなります。
いろいろなことがありましたが、この地でもう伝統的な空手道場は唯一ここ
国際沖縄空手道・古武道
無想会
の道場のみになってしまいました。
その間に、数えきれないほどの多くの生徒を育ててきました。
当然のごとく、アメリカ人です。
白人は勿論のこと、黄色人、黒人もいます。
そして誠に幸いなことに、巣立っていたその多くは、社会の中核になる人間として活躍してくれています。
特に親の世代が移民としてアメリカに渡ってきて、その二世として生まれ育った人間たちは、無想会で学んだ空手を自分の人生の指針として頑張ってくれました。
この四十年の間、どこにも所属せずに、独立した道場としてやってきましたし、道場を立ち上げた最初から、沖縄空手道・無想会なのです。
硬式の世界大会で入賞させ、フルコンの全盛期には全日本選手権にまで出場した選手もいます。
彼らはここで培った体力、気力、そして知力、で・・・。
親たちが、自分たちのために如何に犠牲を払っているかを理解して、いわゆる立身出世を成し遂げたのです。
個々人としての、アメリカ・ドリームの達成です。
しかし所詮は、アメリカの地方都市の小さな道場です。
それだけのことです。
これは非常に言い難いことであり、上記の生徒たちにも、非常に理解しがたいことでもあるかもしれません。
しかし、空手とは、武道とは・・・。
その強靭な心と体で、自らの、そして自らだけの夢を達成させるだけのものでは無いと、わたくしは幼少の頃から思っていました。
それは空手発祥の地である、沖縄が・・・。
それも、当時の沖縄の空手の指導者たちが、社会的(含・政治)に、首里の武士たちの気概を伝えようとしているのが、幼いわたくしにでも理解できたからです。
そこにあったのは、個人としての気概や矜持以上に、大義というものだったと思っています。
そして首里の武士とは、そして侍(サムレー)とは、その大義に殉じるものであるという想いは、わたくしの中にずーっとありました。
特にわたくしの場合は、親族に当時、
米国軍政府の支配下にある沖縄
を、
日本国という祖国に復帰させる運動
いわゆる
祖国復帰運動
の指導的立場にあった人物がおり、この人物がわたくしが学んでいた空手の高段者であるということも、その想いの大きな理由でもあったはずです。
そして侍とは、「仕える人」であるということです。
では、何に仕えるのか?
それは、個人の私利私欲であったり、己の立身出世であった場合も、当然あったでしょう。
ある意味、武装開拓農民とも言える鎌倉武士・坂東武者の、懸命に自分の田畑の場所を守る、いわゆる「一所懸命」なる言葉も、そう理解してもおかしくは無いはずです。
または鎌倉以前の平安時代においては、京の天皇や公家に「仕える」ことが、その主な役目でもあったのです。
いずれにしろ、そこには、日本の漢(おとこ)の判断基準っとなるものが、生まれてきたはずです。
ここまで記して、非常に時代錯誤、あるいはアナクロニズム的なモノを感じられる読者もあるやかもしれません。
しかし、呆気にとられるかもしれませんが・・・。
畢竟、世界における日本の評価というものは、上記の漢たちが示した
名こそ惜しめ!
という以外・以上は無いとしても、過言ではありません。
この稿、続きます。