このブログでは腰を据えて、武術として伝承された沖縄空手の一つの母体となった、中国拳法の事柄を記しています。あれほどの広域にわたって中国文化をいうものは普及し、さらに長い歴史のある地域なので・・・。

 ある程度の、長い記述になるかもしれませんが・・・。そこのところは、読者の方々も腹を据えてお読みくださいね!

 

 武術として伝承された沖縄空手の発達に非常に影響のある、中国・清王朝を興したのは、当時の満州地域に住む女真族という民族でした。

 

 彼らは半耕半牧っというか、その生活の半分は漢民族の影響を受けて、農耕を行い。かつモトモトの自らの文化である、遊牧も行った部族・民族です。

 ただ遊牧の面において純粋な、モンゴル族(蒙古)と比べると、ヒツジを主な遊牧の糧(他にラクダなど?)としている彼らと違い、ヒツジと共に、豚も飼っているということです

 豚は足が遅いために、移動の際には迅速には動けません。ですから、モンゴル民族(蒙古人)は豚を飼っつていませんでしたし、ユーラシア大陸の大半を制覇したジンギスカンの軍隊は、豚を伴っては移動しませんでした。もし、豚と共に進んでいたら・・・。進軍が遅すぎてが、東ヨーロッパどころか、バイカル湖あたりで頓挫していたはずです。

 

 なお放牧の主たるヒツジは、草の根までも食べつくしてしまうので、放牧地の草原を根絶やしにしてしまいます。

 その弊害を防ぐためみは、ヒツジの群れの中に、数頭のヤギを入れることだと言います。

 ヤギは同じ場所に居付くことなく、頻繁に移動する動物(家畜)です。その移動するヤギの跡を、ヒツジがトコトコ(?)と追いかけていくために・・・。草原を、根絶やしにすることから防ぎます。

 

 なお・・・。

 同じく放牧を主とした、紀元前のギリシャ諸国において、草木も枯れたはげ山を創出することになる、主たる原因の一つは・・・。

 ギリシャ人が、ヒツジの群れにヤギを混ぜるということを、知らなかったからだ!という、説さえあります。

 ことによると中東の各地で、草木が根絶やしになったのは、同じ理由なのかもしれません。

 キリスト教の聖書などに頻繁に登場する・・・。いまは、禿山ばかりの土地の気がしますが、むかしのカナンの地は、乳と蜜の流れる土地と言われていたのですから・・・。

 

 さらに純粋な騎馬民族、あるいは放牧を営むモンゴル族(蒙古)と比較すると・・・。

 満州地域に居住のあった女真族は、西南から移入してきた漢民族の影響で、農耕を行っていたということです。

 これらの事柄は、文字通り馬上天下を取るという、純粋な放牧民族・騎馬民族のモンゴル族(蒙古)の人々から見ると、一種堕落したと言えるかもしれません。ってか事実・・・、蒙古人は、そう見下していました。

 

 しかし、その農耕民族の漢民族の影響を受けて、女真族はある程度の文化を花咲かせることが、可能になります。ちなみに、満州族の興した清王朝の太祖である、ヌルハチの軍装(鎧・兜)は、当時の漢民族の明王朝軍隊の軍装それと、まったくと言って良いほどに同様なものです。

 

 その女真族が、半騎馬民族の特性である抜群の機動力を駆使して、漢民族の王朝である明王朝を打ち倒し、清王朝を興します。

 これは北西からの騎馬民族の影響を受けて軍備を強化し、中国最初の統一国家を作り上げたと同じスタイルです。戦いとは、機動力の軽重がその勝敗を分けます。 

 それが・・・1644年です。

 そしてその後に、騎馬民族の主たる徒手格闘術である相撲、あるいはレスリングの練習所である「善撲営」を創設します。

 満州語でブクと呼ばれた武芸(主に相撲・レスリングです)があり、侍衛府に最初は

「相撲営」として創設されて、清王朝の四代目の皇帝に当たる康熙帝(在位1661~1722年)の時代かに善撲営となっていきます