堀口ゆきおと音空間と亡き母との思い出 | 堀口ゆきおと音空間のブログ

こんにちは👋😃姫です。


今日は、先日、お話しさせていただいた通り、姫の亡き母と、バンマスとミチとの思い出のお話しを、させていただいたいと思います。4月28日が命日ですが、3回忌法要が、無事にすんだこともあり、バンマスとミチに、感謝すると共に、振り返って母をしのべたらとおもい、投稿することになりました。


バンマスとミチの人柄もぜひ、知ってもらえたら嬉しいです。


堀口ゆきおと音空間の演奏活動をはじめての頃は、まだ、母も元気で、家族と共に過ごしていたのですが、ある日、私のところに、動けないから来てくれない?と電話がありました。幸い、実家は、私のすんでいる家から、車ですぐに行けると頃だったため、状況を見て、かかりつけの病院に連絡して、応急処置をしてもらいました。

その3日後、容態は良くならずかかりつけの病院から救急車での、地元の大きな病院へ向かい、入院することになりました。病名は、脳梗塞でした。


右半身に後遺症が出てしまい、退院してからも、

リハビリの、毎日でした。


週1回のディケアと、私が泊まりの仕事で、実家の手伝いができないときには、介護施設のお世話になっていました。


毎週、バンマスとミチが、音空間の練習後、母と長い時間、話をしてくれたり、母の好きな百人一首で、遊んでくれたり、徐々に、認知症の兆候も出てきてしまい、とんちんかんな話しにも、二人は、何度同じことを言われても、嫌な顔もせず聞いていてくれました。


娘の私は、2人のようには、なかなかいつもにこにこというわけには行かず、怒ったりもしてしまっていましたね。今考えると、もっとこうしてあげれば良かったのかな?と後悔もありますが、なかなか身内は難しいことだと思います。


しかし、よーく昔のことは、忘れず覚えているものでした。


百人一首は、大好きで、いつも母が、優勝でした。(これは、認知症初期です)

バンマスと姫の母
ミチとと姫の母


しかし、だんだん認知症が進んできてしまうと、母に気を遣い、バンマスもミチもわかっていても、遠慮して、母に気分良く勝たせてくれていました。母もさすがに、(私を勝たせてくれたんだよね❗と言うまでに。)なんとなく感じとるのでしょうか❗


ここ数年の話しですが、


★バンマス  お母さん、いつもきれいだね~


✨母    そんなことないよー嬉しいけれど、冗談でしょう?ところで、バンマスは、今日は、どこから来たの?


★バンマス  ニューヨークからだよ❗


✨母、それは、大変だったね~しばらく考えて、

えー、ニューヨーク?  外国? 仕事で、?

★バンマス お母さん、すごいね~ニューヨーク知ってるんだ❗


✨母、そのくらいわかるよー


と何度もふたりで、あーじゃない、こーじゃない

を、繰り返していました。


ある時、ミチが、流行りのダメージジーンズをはいてきたときがありました。


母は、その姿を見て、しばらく無言❗


ミチが席をはずしたとき、なにやらバンマスに、話しかけました。


✨母、ねえ、ミッチヤン穴のあいている、ズボンをはいてきたけれど、かわいそうだから、バンマスはお金持ちだろうから、ミッチヤンの、お洋服ズボン買ってあげなさいよ❗と



母は、今流行りのダメージジーンズ等知らないので、真剣に、バンマスに、頼んでいました。

ミチが戻ると、その話しは、終わりとなりとなりました。あとで、ミチに話し、大笑い‼️。その後、母の前では、ダメージジーンズをはかないでいたミチでした。すごく、かっこ良く似合っていたのに、母の一言で、母の前では、心配かけないよう、というか母が混乱しないよう、気遣ってくれた優しいミチでした。

バンマスは、母の好きな人形焼やお饅頭を買ってきてくれていましたしミチにいつもステキなお洋服をプレゼントしてくれました。ディケアに行くと、職員さんに、誉められるので、娘さんが買ってくれたのかしら?と聞かれると、みっちゃんからよ❗と答えるので、ミチの名前を職員さんが覚えるほどでした。


きれいな、花籠をバンマスとミチが届けてくれました。



10数年、母の介護をしてきましたが、回りのたくさんのかたのサポートがあり、今日に至っています。
私も音楽を通して、皆さんに喜んでいただけるよう、音空間のメンバーとして歌を歌い続けたいと思います。

介護中の方、これから、介護に携わる方も、無理せず、回りのかたのサポートを受けながら、楽しく毎日を送りましょう。

まだまだ、エピソードは、話しきれませんが、今日はこの辺で。


ごきげんよう。