社会生活での協和音、不協和音 | 自給自足ハーピストのよもやまブログ

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ハープ奏者、作曲家、即興演奏家、古佐古基史が、カリフォルニアの大自然の中、静かなファーム暮らしと音楽活動の合間につづる徒然なるままのブログ。

 昨年以来、COVID-19の流行とその対策、新型mRNAワクチン、ワクチン義務化、ワクチンパスポート制度、などによる接種の強制と自由の制限など、見解と立場の対立を生み出す社会事象が相次いでいます。そんな中、自ら発する音が今の社会で奏でられている音楽に協和しない状態、つまり不協和音に悩まされ続けております。しかし、それとは反対に、今の状況で経済的にも潤い、社会のあり方も自分の理想の方向に向かって進んでいると感じ、むしろ居心地の良い協和音を楽しんでいる方も大勢いらっしゃると思います。

 このように、協和、不協和という概念は、絶対的なものではなく、相対的なものです。このことに関し、音楽の例を用いて考察をしてみたいと思います。

 例えば、ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソというAマイナーのスケールから作られたメロディーがあって、そこでAマイナー(ラドミ)という和音が鳴っていて、いい雰囲気の短調の曲が奏でられているとします。このときに、シのフラットという音を出すと、せっかくの雰囲気をぶち壊す不協和が生じます。しかし、この不調和の原因と思われるシのフラット自体が、不協和という要素を持っているわけではありません。AマイナースケールのメロディーとAマイナーのコードで構成されている音楽的文脈に対しては、Bフラットという音が不協和要素になるということです。Bフラットメジャースケール+Bフラットコードという文脈に対しては、Bフラットはこの上なく協和する音になるのです。

 これを社会での人間関係に置き換えて考えてみます。例えば、Cさんという方と人間関係において不協和を感じているとします。その場合、Cさんか自分のどちらかに不協和の要因があるという視点で捉えてしまいがちですが、ほとんどの場合は、その人間関係という文脈において自分とCさんという組み合わせが不協話な関係にあるというだけで、そのどちらかが特に悪いというわけではないのです。

 今の妻とは協和的な関係にありますが、そこに行き着くまでには、数名のガールフレンドと離婚した前妻との関係において、一緒に奏でていた曲を途中で強制終了しなくてはならないほどの不協和を経験しました。ただし、交際の最初から不協和状態を我慢して合奏していたわけではなく、ある時までは協和状態であったのが状況が変化して不協和になり、最終的に破綻したのです。つまり、一緒に演奏を始めた時点(交際初期)では、その二音は協和関係にあったのに、曲が進むにつれて曲にそぐわない不協和な関係になってしまったわけです。もともと同じ曲を演奏しているつもりでいたけれども、もしかしたら冒頭の部分が似ているだけの全く別な曲を演奏していただけなのかもしれないし、楽譜を読み間違えたのかもしれないし、転調しなければならないタイミングでしかるべきシャープやフラットへの変化を拒んだのかもしれません。不協和が起きたメカニズムがなんであれ、個別の音自体には不協和の責任はなく、組み合わせとそのタイミングが悪かったというだけなのです。

 長い人生、いろんな文脈で様々な人物、様々な出来事と不協和を感じることはありますが、そこで不協和関係にある相手や出来事を攻撃したり自己嫌悪に陥るのではなく、「今自分が演奏したい音楽の中に身を置いているのか」「自分が本当に出すべき波動の音を出しているのか」「自分の波動が協和して曲全体に貢献できる演奏に加わるには、どこに行けばいいのか」など、広い視点から今経験している不協和を俯瞰してみることで、周囲にとっても自分自身にとっても建設的な道が見えてくるのではないでしょうか。