芸術における個性とは

テーマ:

 芸術の創造においては、既成事実化されている限られた思想や、一般常識とされている物の見方に立脚して世界を眺めるだけでは不十分で、それらの枠にとらわれない柔軟な思考と感性が必要とされます。そのためには、一般的には異端、あるいは突飛とみなされる思想や世界観にも幅広く接し、批評家や専門家により太鼓判を押された芸術作品だけでなく、有名、無名に関わらず、真摯な芸術家が試行錯誤の苦しみから生み出す様々な芸術作品に触れ、思考と感性を錬成することが大切です。

 

 芸術家は、そのようにして身につけた柔軟な思考と感性を駆使して、真理に近づくための誠実な努力を続け、そこで見出したものを作品として表現することで、世の中に多様なものの見方と考え方を提唱し、社会全体に柔軟な思考と感性を育む土壌を提供する役割を担うことができるようになります。個人的には、この役割こそが芸術家や思想家の存在意義の中で、最も重要な部分だと考えています。

 

 もし、皆が既成の体系化された理論や価値観のみに従って表現をするならば、つまり、すでに体系化された手段で大衆に広く受け入れられたものを紋切り型に生産するならば、社会の柔軟性を育む土壌となる多様性を増すことには繋がりません。芸術において多様性を維持するためには、その時点その場所において作った作品が売れる/売れない、一般に評価される/評価されないという価値基準ではなく、それぞれのアーティストが自らの「個性」に従って作品を作ることが大切になってきます。

 

 しかし、「個性」という言葉を用いる場合には、注意が必要です。

 

 芸術に関する論議においては、「個性」という言葉には、既成概念に縛られず自由に何でも表現することへの免罪符というような印象があり、一般的には、「作品や表現方法がそれまでにない斬新なもので、明らかに他のものとは異なる印象を与える」場合に、「個性的」と評価されます。しかし、このような「個性」の評価基準には疑問を感じています。なぜなら、「個性」は、「他人と違う」ということでなく「自分らしい」ということに本質的な意義がある思えるからです。

 

 遺伝的素質や生育条件は、皆それぞれに異なっていて、同一ということは絶対にありえません。そのため、芸術家が誠実に「自分らしさ」を突き詰めれば、彼が作品を通じて体現できる真理と芸術表現は、自ずと「他人と違う」ということにならざるをえません。ですから、「他人と違う」ということは、それ自体を目的として追求するものではなく、「自分らしく」あろうとすることの副次的な結果に過ぎません。

 

 しかし「個性」=「他人と違う」という立場で個性を追求すると、自分が本当に感動したり美しいと感じたりするものでなくても、「斬新である」という理由から表現の対象を選択することになりますから、「斬新である」という要素が「美」と「感動」という要素よりも優先されてしまいます。しかし、美と感動をなおざりにした作品は、芸術と呼ぶに値するのでしょうか? 例えば、もし文学から「美」と「感動」が取り去られたら、単なる情報を伝える電気製品の取り扱い説明書や新聞記事と変わらないシロモノのなってしまいます。このような観点から、芸術にとって「美」と「感動」はもっとも重要な要素といっても差し支えないと思います。

 

 現代アートの多くの作品は、「感動」ではなく単なる「感情」、あるいは知的刺激しか呼び起こしません。それは、芸術の世界において「他人と違う」ということと同義に考えられる「個性」が、美と感動よりも優先されるようになったことの弊害だとも考えられます。

 

DIYの意義

テーマ:

DIYの意義

 

 日常生活では、自給自足を目指しDIY三昧なのに、肝心のハープに関してはブラックボックスのままというのはあまりに自己矛盾しているので、昨年の秋のツアーの隙間を狙って、福井の青山ハープ本社工場にて、4日間研修を受けさせてもらいました。精妙な木工細工と非常に細かなパーツによって組まれる機械部分からなるハープは、現代でもほとんど手作業によって作られています。今回勉強させてもらったのは、木工や塗装が終わった後の組み立てと、最終的な楽器のアクション調整と音程調整に関する技術です。

 

 楽器奏者が楽器の製作やメンテに全く関わらないことに違和感を感じる方は、案外と少ないかもしれません。しかし冷静に考えてみると、ほぼ毎日数時間も演奏している楽器の中身を、20年間も「ブラックボックス」として無知の中に置き去りにしてきたことは、とても異常なことだと感じます。現代社会では、高度な分業によって高い生産性が担保され、お金さえ払えば様々な製品とサービスが手に入る仕組みが確立されているため、だれでも便利で文化的な生活を享受できるようになりました。しかし、その結果、生活インフラや生活必需品の仕組みに関して全く無知のままに、無数の「ブラックボックス」に囲まれて生きることが常態化しています。個体の生存能力という視点からみると、これはとても危うい状態です。もしこの社会の仕組みが機能しなくなるような事態、例えば大きな災害や戦争などが起きた場合に、社会構成員のほとんどが個として自己の生存を維持する能力を失っているとしたら、種としての存続が危ぶまれます。

 

 おそらく、このような危機感は現代人の多くが持っているものの、即時的な解決策もなければ、個人の努力ではどうすることもできない問題であるため、平時にはあえて「問題なし」として無視しています。しかし、無視していても問題は常にそこにあるわけですから、バックグラウンド的な不安感は軽度のストレスとして感じられます。

 

 この問題を個人として即時的に解決することは不可能ですが、何もしないで無視し続けるよりは、できることから少しずつでもやり始めたいと思い、持続可能ファームでの自給自足を目指しています。今回のハープ研修も、その取り組みの一環としてのチャレンジです。

 

 4日間の研修では、ハープをゼロから作れるほどの理解を得ることは到底不可能ですから、楽器への理解をほんの少し掘り下げたにすぎませんが、少なくとも、楽器全体の仕組みと、すでに作られたパーツの組み合わせの方法論は理解できました。結局のところ、どれだけDIYにチャレンジしても、これが限界です。逆に言うと、パーツ交換と全体の働きの調整までは、専門家でなくともそれなりにできるということです。自動車修理に関しても、これまでに色々と試みて多少なりとも知識と経験も蓄積されてきましたので、ある程度まではパーツを交換する作業はできるようになりましたが、実際にゼロから自動車を作ることは全く無理です。農業もしかり。すでに作られている道具や資材を用いて農業をすることは可能ですが、農具や柵などのインフラ資材から全部手作りで立ち上げることはできません。土木作業、建築作業においても同じことです。

 

 このことは、専門としている音楽においても同じです。ハーピストとして、過去の作品の演奏、即興演奏、作曲、演奏法の開発など、できるだけ広範な音楽との関わりを追求し、できるだけ自らの手で音楽を生み出せるように能力開発をしていますが、肝心の道具である楽器や弦を自分で作ることはできませんし、7音階/12半音階の音階システムや和声の方法論も、すでに確立され使われているものをそのまま使うほかありませんから、どれだけ頑張っても他者への依存状態から抜け出すことはできません。

 

 社会への依存から離脱し、天変地異が起きた時に自分だけが生き延びるために自給自足を目指す方も多いようですが、それは一種の傲慢だと思います。実際には、自給自足やDIYを深く追求すればするほど、どれほど個人の能力が限定されているかを思い知らされます。人類は、歴史の中で蓄積された知恵を学び、社会分業によって互いに依存し合うことでしか、種として長期的に生き延びることはできないのです。ただ、現代社会で見られるほどに細かな分業と専門化が行き過ぎると、固体としての生存能力が著しく低下してしまいますから、個人としてできる範囲でマルチタスク、すなわちDIYの努力を続けることは大切だと思います。実際、いろんなことを自分でできるようになると、生きる自信に裏打ちされた安心感を腹の底に感じられるようになり、生きることへの不安や恐れが軽減します。なによりも、DIYの努力によってもたらされる最も大きな報酬は、生活に必要なすべての作業はどれも専門性と熟練を要するものであり、それに関わるすべての職能が必要不可欠なもので、職業自体に貴賎はないということの理解が深まり、他者への感謝と尊敬の念が深まるという点です。

 

 現代社会では、職業によって身分や収入が異なるのはあたり前のことですが、本当は異常なことなのだと思います。人類がより優れた社会システムを見出すには、まだまだ時間がかかりそうです。

音楽監督として企画から制作まで関わってきた「まつやまハープフェスティバル」の開催が明日に迫りました。クラシックからジャズまで、様々なジャンルのハープ音楽をお楽しみいただけるコンサートです。

 

第一部:ハープ&フルート 

 ハープ:松本彩 フルート:木藤麻衣子

 

1.ワルツ(作曲:オーギュスト・デュラン)ハープ・ソロ

  Valse Op.83 (Auguste Durand)

 

2.亡き女王のためのパヴァーヌ(作曲:モーリス・ラヴェル)

  Pavane pour une infante défunte (Maurice Ravel)

 

3.フルートソナタ ハ長調(作曲:ヨハン・セバスチャン・バッハ)

  Flute Sonatas in C major BWV1033 (Johan Sebastian Bach)

 

4.シチリアーノ(作曲:マリア・テレジア・フォン・パラディス)

  Siciliano(Maria Theresia Paradis)

 

5.タンゴの歴史より「酒場1900」(作曲 アストル・ピアソラ)

  Historia del Tango “Bordel 1900” / Astor Piazzolla

 

6.間奏曲(作曲:ジャック・イベール)

  Entracte (Jacques Ibert)

 

 

第二部:ハープ&ギター・デュオ「さらさ」

 ハープ:Machiko ギター:森川俊行

 

1.AoiAi(作曲:森川敏行)

「青は藍より出でて藍よりも青し」(弟子は師匠を超えるという意味の言葉)

結成10周年を迎え、前作よりも成長した作品を作り続けたいという思いで作曲しました。

 

2.月兎(作曲:Machiko)

 毎日、形を変える「月」は私たちを魅了する。アイルランドのダンスチューンのリズムを取り入れて作曲しました。

 

3.埴生の宿(「Home! Sweet Home!」イングランド民謡)ハープ・ソロ

 

4.雨(作曲:さらさ)

 雨が降ると憂鬱な気持ちになったり、植物にとっては恵みの雨であったり。その時々で見え方、感じ方が変わる「雨」を表現しました。

 

5.White Night(作曲:森川敏行)

 夜なのに昼間のように明るい現象、白夜のイメージで作曲しました。

 

6.T&J(作曲:森川敏行、Machiko)

 アニメーション「トム&ジェリー」のドタバタなイメージで作曲しました。

 

7.Palma de Majorca(作曲:森川敏行)

 2年前に訪れたスペイン・マジョルカ島。明るく活気にあふれた街からインスピレーションを受けて作曲しました。タイトルは、町の名前から。

 

 

第三部:ハープ&メゾソプラノ

 ハープ:宮内くにえ メゾソプラノ:久保幸代

 

1.オペラ「トゥーランドット」より『誰も寝てはならぬ』(作曲:ジャコモ・プッチーニ)

  ”Nessun dorma” from opera Turandot (Giacomo Puccini)

 

2.オペラ「ジャンニ・スキッキ」より『私のお父さん』(作曲:ジャコモ・プッチーニ)

  “O mio babbino caro” from opera Gianni Schicci (Giacomo Puccini)

 

3.泉(作曲:アルフォンス・アッセルマン)   ハープ・ソロ

   La Source (Alphonse Hasselmans)

 

4.港の時雨(作詞:野口雨情 作曲:藤井清水)

 

5.ちょんちょん雀(作詞:北原白秋 作曲:藤井清水)

 

6.荒城の月(作詞:土井晩翠 作曲:滝廉太郎)

 

7.オーソレミオ(作詞:ジョバンニ・カプッロ 作曲:エドゥアルド・ディ・カプア)

  O sole mio (Giovanni Capurro / Eduardo Di Capua)

 

 

第四部:ハープ&マリンバ

 ハープ:古佐小基史 マリンバ:松島美紀

 

1.アルシオン(作曲:古佐小基史)

 Alcyon (Motoshi Kosako)

 幸せを運んでくれる架空の鳥、アルシオン。鳥の飛び立つイメージで、ハープをギターのようにリズミカルに演奏する曲です。

 

2.霊峰(作曲:古佐小基史)

 Spiritual Mountain (Motoshi Kosako)

 霊峰石鎚山の険しい男性的なイメージと、雄大な自然と生命を育む母性的なイメージが組曲形式で表現されています。

 

3.広野に向かって(作曲:古佐小基史)

 Walking into open land (Motoshi Kosako)

 松山出身の写真家、松本紀生さんが雄大なアラスカの平原に向かって歩いて行く映像を見ながら、ソプラノサックス奏者ポール・マキャンドレス氏と即興的に作曲した曲で、南海放送のドキュメンタリー番組「一枚のアラスカ」で使われた音楽をマリンバとのデュオに編曲しました。

 

4.ハープソロによる即興演奏

 Harp solo improvisation

 音楽をその場で生み出すソロの即興演奏は、瞬間的に作曲と演奏を同時に行う演奏です。音楽家が音楽を創造する瞬間の緊張感をお楽しみください。

 

5.チャイナ・ロード(作曲:古佐小基史)

 China Road (Motoshi Kosako)

 三国志の時代の雄大な中国大陸を、騎馬に乗った武人が勇ましく駆け抜けてゆく…そんなイメージで作った曲です。

 

 

フィナーレ: 出演者全員による合奏

 ダニー・ボーイ(アイルランド民謡 編曲:古佐小基史)

 Danny Boy (Irish traditional song)

 

 

人生を変えた音楽

テーマ:

人生を変えた音楽

バンド “Oregon”との出会い

 

 「音楽なんて、所詮は娯楽。遊びみたいなもので、まともな仕事ではない。」とい心の奥底で思っている方は、結構たくさんいらっしゃるのではないでしょうか?子供時代には、周囲の大人たちからそういう空気を強く感じましたし、今でも、年配の方からそれを匂わせる発言を受けることがあります。そのおかげで、フルタイムの職業音楽家として生計を立てている現在でも、音楽家として生計を立てていることにある種の引け目や罪悪感を感じる瞬間があります。

 

 音楽ビジネスという観点では、まさに「お金になる音楽=価値ある音楽」ですから、優秀な「ビジネスマン」から「お金が稼げないということは、お前のやっている音楽に社会的な価値がないということだ」というような価値観をぶつけられると、自分と家族がなんとか食っていける程度のお金しか生み出さない音楽活動が、応援してくださる方の人情にすがる物乞い同然の行為のように思え、音楽を続ける気持ちが折れそうになることもあります。

 

 しかし、過去に人生を変えるほどの音楽との出会いがあったこと、音楽と関わることで、お金や社会的立場などのいわゆる物質的な「現実」の世界とは一線を画する普遍的な精神世界の存在を実感できていることは、厳然たる事実です。この事実に目を向けると、音楽を通じて誰かの人生にポジティブな影響を与え、社会に何らかの形で貢献しているかもしれないという希望を取り戻すことができます。

 

 ツアー直前のコンサートで、ポール・マキャンドレスと演奏している時に、ポールが40年以上にわたって活動を共にしてきたバンド「オレゴン」の音楽スタイルにどれほど強く感銘を受け、音楽家としてのあり方にどれほど大きな影響を与えられ、それによってどれほど大きく人生が変わったことか、あらためて思い起こされました。

 

 初めてオレゴンのレコードを聴いたのは、20歳をちょっと過ぎた学生時代でした。当時は東京大学のジャズ研に所属して、学業そっちのけで一生懸命にジャズギターに打ち込んでおりました。その頃は、「ビーバップをきちんとできないとジャズをやっていることにはならない。まずはツー・ファイブのフレーズをたくさん覚えて、それを使いこなすことが大切だ。」と先輩に言われて、チャーリー・パーカーのツー・ファイブのフレーズ集を覚えたり、コード進行に合わせてアドリブのできるスタンダードの曲をたくさん知っていないとジャムセッションで恥ずかしい思いをするので、興味がなくてもセッションでよく演奏される曲を覚えたり、有名なジャズミュージシャンそっくりな音を出して似たような感じでアドリブをできたら「カッコイイ!」と言われるので、ひたすら有名ギターリストの真似をしたり、外れているように聴こえる音の方がモダンでかっちょいいということで、わざと不調和な音を選んだフレーズでアドリブしたりと、今から考えると、随分と間違った動機で音楽に向かっていました。

 

 しかし、もともとスイングやビー・バップのスタイルはあまり好きでも得意でもありませんでしたし、前もって準備したツーファイブの手癖フレーズやコードに合うスケールをつなぎ合わせるアドリブでは、どの曲のアドリブも全部同じに聞こえてしまうことに行き詰まりも感じていました。自由にその場で新しい音楽を意識的に創造するはずの即興が、覚えている音楽の断片をつなぎ合わせる機械的な作業になってしまい、クラシックを楽譜通りに演奏するよりも、はるかに創造性の低いプロセスに成り果ててしまう…。そこで、逆に不調和にアウトする方向性でアドリブにアプローチしてみたのですが、そうするとますます曲の構造など関係なくなってしまい、曲の意図が失われ、不協和が立ちすぎて音楽で最も重要な美しさすらも失われてしまう…。こんな調子で、その頃はいつも「何かが違う」という思いに悩まされていました。

 

 そんな時、出会ったのが、バンド「オレゴン」。ギターリストのラルフ・タウナーと、現在自分の音楽パートナーであるオーボエとイングリッシュホルン奏者のポール・マキャンドレス、それにタブラとシタール奏者のコリン・ウォルコット、ベーシストのグレン・ムーアによるカルテットで、一般に「ジャズ」という言葉から連想する音楽とは全くかけ離れた音楽ですが、即興が演奏の多くの部分を占めているという点ではジャズです。オレゴンの音楽では、ジャズのスタンダードに見られる典型的な和音進行だけではなく、印象派的な和音、バロック音楽的な和声と対位法などを駆使した独自の雰囲気を生み出す楽曲の上で即興が展開するので、コードに沿ったスケールや覚えているツー・ファイブのフレーズをはめ込むだけでは全く即興演奏が成り立ちません。その難しい条件で、あたかも新しいメロディーをその場で作曲するかのようにメロディアスな即興をするオレゴンは、まさに自分の求めていた音楽スタイルを高いレベルで具現化しているバンドでした。

 

 裏話になりますが、ポールによると、バンドの初期の頃は、演奏している本人たちにとってもこの種の即興演奏は非常に難しく、あまり長い即興をやるとボロが出るので、短めにソロをとっていたそうです。

 

 学生時代は、まずレコードからラルフ・タウナーのギター演奏を耳で楽譜に興し、彼の作曲法や即興法などを真似してオリジナルを書いてみましたが、結局粗悪な複製程度のことしかできず、すぐに挫折しました。また、音楽業界の知人に頼んで、日本ツアーに来ていたラルフ・タウナーのホテルの部屋で彼に会い、短時間のレッスンとアドバイスを受ける機会にも恵まれましたが、本人を目の前で見ると自分との雲泥の差にさらに挫折感を味わいました。一体、この差はなんなのか?自分の音楽には何が欠けているのか?

 

 ラルフ・タウナーは、ジャズピアノとクラシックギターと作曲を専門的に勉強した音楽家だったので、やはりクラシックを本格的にやらないとダメなのかなと思い、クラシックギターのレパートリーの中でも特に好きだったバロックとルネッサンスの楽曲をかなり勉強しました。当時住んでいたアパート近くの駒沢公園にある競技場下の駐車スペースで、夜中に何時間もギターの練習をし、バッハのリュート組曲の多くを、人前でも披露できる程度まで習得しました。そうやって知識も技術も増えたけれど、それでもやっぱり根本的な部分で、何かが足りない。

 

 そんな悩みの時代に、人生を変えてくれたもう一人の音楽家は、ピアニストのキース・ジャレットでした。彼は、自伝や評伝で哲学的な背景に関してもたくさん語っていたので、音楽だけでなく彼の思想からも学ぼうと努力しました。しかし、どれだけ頑張っても、やはり一流音楽家との次元を超えた差は縮まりません。対位法、和声などの音楽理論、作曲法も独学で勉強しましたが、それも根本的なところでは大きな変化をもたらさないことを痛感しました。

 

 結局、アメリカに渡ってギターも作曲も諦め、27歳から音楽との新しい関わりを求めてハープをゼロから始め、クラシックを基礎から学び、苦労の末にプロのオーケストラの首席ハーピストとなりましたが、しばらくして、自分はクラシック音楽家にも向いていないと気づきました。かといってギターと即興演奏から離れてすでに10年、ハープでは即興も作曲もやったことはないという状況…。音楽家としては「もはやこれまでか…」と思った時に、学生時代にラルフ・タウナーからもらったアドバイスを思い出しました。当時「あなたのように素晴らしい作曲をするには、どうすれば良いのですか?」という愚直な問いに対し、ラルフは「静かに心の中に聞こえる音に耳を傾けて、それを楽器の上で見つけると自然に曲が出来上がる。」と答えてくれました。

 

 それ以来、ギターで学んだ音楽の理論的知識をハープという新しい楽器の上で改めて学び、心に聞こえる音を楽器の上で具現化するという方針で音楽を作り始めました。しかし、心の音を聴くということは、案外と難しいものです。知識が先行すると「頭の音」を聴いてしまうし、自分の心の中に耳を傾ける価値のある音楽が埋蔵されていることもにわかには信じ難いのです。根気良く心の音に耳を澄ますためには、まず、過去の音楽への感動経験によって築かれた「心の音の世界」の豊かさを信じ、心を解放することが必要ですが、それも一朝一夕でできるものではありません。それでも、なんとか心の音が聞こえるようになり、それを実際に楽器の上で見つける段階に来たときに、知識と理論が地図のような役割を果たしてくれるありがたいものであることを、心底実感しました。

 

 こうして、心に聞こえる音で音楽を作り始めて数年経った2009年に、当時活動していたトリオのベーシストの紹介でポール・マキャンドレスとの出会いがありました。その時、図々しくも2008年にリリースしたトリオのアルバムを渡し「こんな音楽をやってます。次のアルバムではあなたに入ってもらいたいと思ってますので、聴いてみてください。」とお願いしたのです。しかし、1ヶ月ほどはなんの返事もなく、「やっぱり無理だよな」と諦めかけていたある日、「いい音楽だから興味がある」という電話を受けて、頼んだこちらが「マジで!」とびっくり。

 

 学生時代に神のように思っていた演奏家とのプロジェクトに、すべて自分のオリジナル曲を持ち込んで演奏をお願いするときの緊張感といったら、なかなか他に経験できない緊張感です。これまで一流の作曲家の曲を演奏し、本人もオーケストラ作品で作曲家としてグラミー賞にノミネートされているポールに、自分の曲を演奏してもらえるのだろうか…?自信はありませんでしたが、心の中で美しく聞こえた音楽を誠実にハープで実現しようと努力して作った楽曲でダメなら仕方がない、という割り切りはありました。実際には、ポールは持ち込んだオリジナルのすべてを気に入ってくれて「同じ音楽言語を話す仲間」と評価してくれました。それ以来、現在まで音楽のパートナーとして・良き友人として一緒に演奏活動を続けています。

 

 20代に直面した音楽家として悩みへの解答は、結局「真摯に自分自身であろうとすること」だったのかなと思います。他者をどれほど敬愛し、憧れたとしても、その人物になることは不可能です。ラルフ・タウナーやキース・ジャレットにはなれないけど、古佐小基史として音楽を追求することはできます。その結果生み出される音楽に、彼らの音楽と同等の客観的価値はないとしても、自分の人生を誠実に反映してあるものであれば、自分を愛してくれる家族や友人がいるように、その音楽を愛してくれる聴き手も必ずいるはずです。そして、一人一人の生命が掛け替えのない独自の価値を持つ存在であるのと同様、自己に誠実であることから生まれた音楽にも掛け替えのない価値があるのだと思います。

なんで中年のオッサンが働き盛り?

 

 アラフィフの40代のオッサン。中年の中の中年。これが中年でなかったら、世の中に中年などという者は存在しないほどの直球ド真ん中の中年です。20代の頃は、テレビなどで「50歳といえば、ちょうど働き盛りで云々…」と言われているのを聞くたびに、「なんでそんな片足を棺桶に突っ込んだようなおっさんが働き盛りなわけ?」と不思議に感じましたが、実際にそうなってみると、その謎が解けてきました。

 

 アラフィフ。アメリカに移住した後に日本で発明されたナウい言葉なので「中年」よりはカッコよく響きますが、中身は一緒ですよね?一応健康でも、近くの物が見えにくくなり、髪の毛やヒゲに白い物が混じり、ちょっと油断すると太るくせに、歯茎はだんだん痩せてくる。血糖値や血圧を心配し、徹夜などしようものなら次の日はヘロヘロ。怪我をしたら回復に時間がかかり、病気になったらなかなか元どおりには戻らない。四十肩や五十肩は序の口で、無理したら腰痛や筋肉痛。何かを取りに部屋に入って「あれ、オレは何をしにここに来たんだっけ?」とボケをかまし、いびきや加齢臭で若者からも毛嫌いされる。確かに、20代の青年に比べたら、見事に片足+αを棺桶に突っ込んでいる存在です。

 

 実際に、もう不眠不休のようなタフな働き方はできませんし、日頃からある程度健康に留意して生活していないと、深刻な病にも陥る可能性も大きく、腰痛や肩痛など慢性的な痛みが体のあちこちに常態化しているのも珍しいことではありませんから、肉体的なコンディションを見る限り、「働き盛り」というよりは「満身創痍」といったほうが的確です。

 

 しかし、メンタルの面では、20代のころと比べるとはるかにタフで安定し、賢くなっていることは確かです。このメンタルの強さが、中年をして、肉体的には昔ほど働いていないにもかかわらず、「働き盛り」ならしむる秘密だと思います。

 

 経験に裏打ちされた説得力、素早い決断力、長期を見据える力、気長に結果を待つ忍耐力、無駄をしない知恵、争わない知恵、仕事の優先順位を見極める判断力、パニックに陥らない安定感、過度な期待をしない現実感、自他の失敗を受け入れる余裕、人間関係において信用を得る力、責任感と使命感、などなど。