なぜ、現代に大作曲家が排出されないのか? | 自給自足ハーピストのよもやまブログ

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ハープ奏者、作曲家、即興演奏家、古佐古基史が、カリフォルニアの大自然の中、静かなファーム暮らしと音楽活動の合間につづる徒然なるままのブログ。

なぜ、現代に大作曲家が排出されないのか?

 

 現代では、音楽教育においてメソッドやカリキュラムが確立され、教育機関と指導者も質量ともに充実し、子供向けの音楽教室から大学レベルの専門機関まで、様々なニーズに対応できる教育の仕組みが整い、性能の良い楽器も手の届く金額で普及し、特に裕福な家庭でなくても子供に正規の音楽教育を受けさせることは可能になっています。

 

 その結果、正規の音楽教育を受け音楽で生計を立てている音楽家の数は、大作曲家が多く排出されたバロック時代から印象派までの時代と比較すると、何十倍、あるいは何百倍という規模で爆発的に増加していると考えられます。このように、音楽人口は爆発的増加を遂げたにもかかわらず、現代においては、過去の作品をしのぐほどの作品が何百倍ものスピードで作り出されているわけではありません。なぜ、毎年のようにベートーベンの第九のようなレベルの交響曲が新作として何百曲と発表されるような状況にならないのか?むしろその逆で、過去の名作と肩を並べるほどの普遍的な美と感動を喚起する現代作品がほとんど見当たらないのは、なぜなのか?

 

 その原因の一つには、現代社会では音楽が溢れすぎているため、音楽が当たり前の印象として表面的にしか認知されなくなり、音楽に心の底から感動するという体験をすることが難しくなったということが考えられます。音楽家が音楽への深い感動体験を十分に積んでいないとしたら、感動を産みだす音楽の神秘に深く惹きつけられることもなく、そのような感動を目指した創作活動に時間とエネルギーを注ぐこともありません。つまり、音楽の作り手が「真の感動の創出」という目的意識ではなく、もっと当たり前の面白さ、心地よさ、綺麗さ、商品的価値などを意図して創作しているのではないかと考えられます。

 

 また一般的に普及している音楽教育のあり方と、音楽の専門分野が単一の楽器の演奏、作編曲、即興演奏に分業されている現代の音楽業界の現状も、現代の音楽家の創造性を抑制している原因であると考えています。

 

 現在の音楽教育は、楽譜に書かれてある音楽を演奏する能力に偏重しており、演奏のスキルと作編曲(や即興演奏)のスキルは異なる分野として専門化し、音楽家の仕事も、演奏家、作編曲家、即興演奏家とそれぞれに細分化されています。そのため、演奏、作編曲、即興演奏の能力を等しく高度なレベルで身につけようとする努力は、職業上の実益には結びつきにくいため、わざわざ全ての能力をマスターしようとする音楽家の数は、むしろ昔に比べて非常に少なくなってしまっていると考えられます。

 

 このような傾向は音楽に限らず、科学、産業、医療など様々な分野においても見られます。例えば、医療においても専門化が進み、一名のドクターが様々な疾患を診るのではなく、特定の体の部位や疾病を専門とする医師がチームとなって総合的な医療を組織的に提供することが普通となっています。また、アメリカ西部のファームにおいても、「大草原の小さな家」の時代のように、鍛冶屋から大工、百姓、精肉、獣医まで、一通りの仕事を全て自分でこなすということは少なくなり、お金を使って様々な業種の専門家を雇ってファームをチームで運営するのが普通になっています。

 

 このような分業化が進み、個人の職能はマルチタスクからシングルタスクへと方向転換することで、狭い分野を深掘りする多様な専門家が生まれ、一点集中の効率の良い職能教育が可能になり、社会生産性は効率化しました。しかし一方で、物事の全体像を俯瞰できる大きなビジョンと統合能力を育成することは難しくなり、自己完結的に個人の生存に必要なことを一通りこなせる「鶏口」的な人材はどんどん少なくなり、大きな組織の一部としての機能を果たすことに専門化した「牛後」的な人材ばかりが肥大するアンバランスが社会で生じてきます。

 

 音楽においても、効率よくそれぞれの楽器の専門的な演奏者を育成し、過去から現在まで譜面化された様々な音楽を実際に演奏するための高度な職業演奏家を大量に育成することに成功しています。しかし、その一方で、自ら音楽を作曲したり、即興演奏によって新しい音楽を生み出すことのできる音楽家の割合は激減し、その代わりに、ある特定の楽器のために過去に書かれた曲であればどんな難曲でも演奏できる音楽家の割合は大きくなっています。

 

 ここ数百年の間に音楽のスタイルや創作目的は激変し、さらに近現代になって音楽が個人の表現手段として無数のスタイルに派生したために、それらが同じルールに従った表記法によって楽譜化できるという共通点以外に、ほとんどいかなる共通点もないような音を用いた表現のすべてが、十把一からげに「音楽」と呼ばれるようになりました。現代のプロの演奏家は、そのような多種多様な音による表現物(それらをひっくるめて音楽と呼んでいますが…)のすべてを、時代やスタイル、音楽の書かれた目的に関わず演奏できなくてはなりません。実際にクラシック・ハーピストとして生計を立てていた経験から、これは非常に過酷なタスクだと痛感しています。楽譜を素早く正確に読み、そこに含まれている美を汲み取って、忠実に音として表現する能力を学ぶためには、膨大な時間と労力がつぎ込まれる必要がありますから、演奏の専門家が作曲や即興を学び実践するために割くことのできる時間とエネルギーは、ほとんどゼロになってしまいます。

 

 クラシックを演奏する時には、楽譜に書かれてある音を楽器の上で正確に把握し、自分の出している音を感覚的にも感情的にも納得しながら演奏することにほぼすべての注意力が使われますから、即興演奏や作曲をしている時のように、和声の流れやそこで使われている音の音楽的な必然性などを知性でも納得しながら演奏をすすめることは、非常に困難です。むしろ、そのような知性的なアプローチはほとんど必要なく、場合によっては知性が感情や動作機能の微細な働きの邪魔になる場合すらあります。

 

 ハーピストとしてのキャリアの最初の7年は、ほとんど作曲家、即興演奏家としての脳力を使わずに、クラシックハープの演奏のみに専念しました。その結果、それなりの時間とエネルギーをかければ、ハープのために書かれている楽曲であれば、プロとして要求されているレベルで演奏することができる技術を身につけることができました。また、自分の好みとは関係なく仕事で要求される様々な様式の音楽を演奏することで、これまで気づかなかった音楽美、これまで同意できなかった美のあり方への理解なども深まり、音楽家としての幅も広がりました。しかし、「感動を生み出す素晴らしい楽曲を創作した作曲家が、どのようにしてそのような音楽美にたどり着いたのか?」という、音楽創造に関わるより根本的な理解のための努力と、それを自分でも行えるようになるためのトレーニングは、全くなおざりになっていることに気づきました。つまり、完璧に暗譜して演奏できる楽曲が数時間分頭に入っているのに、それらの構造を模倣して同じレベルの作曲や即興をすることができないことに、ショックを覚えたのです。

 

 喩えて言うと、英語の台本を、書かれてあることをほぼ完璧な発音と抑揚で詠めるようになり、舞台でも演じられるようになったけれども、書かれてある言葉の意味はよく分かってないし、ましてや、どうやったらそのような台本を書くことができるのかということに関しては、ほとんど何も知っていないことがはっきりと認識されたのです。

 

 そして、そのことがとても情けなく感じられ、そのような自分は「音楽家」でも「芸術家」でもなく、せいぜい「楽器演奏者」にすぎないと認識しました。楽器を完璧に操作して、書かれてある楽曲を申し分のない出来栄えで演奏できることは、それだけでも非常に価値ある能力ですが、それは音楽をゼロから作ることとは全く違うことです。意味も分からず言葉を読み上げられるだけの役者としての能力と、内容的にも言葉の並びの上でも美しく感動を生み出せる台本を書ける能力は、別次元の能力であるのと同じことです。

 

 あるピアニストが、ショパンの楽曲をどれほど完璧に、感動的に演奏できたとしても、そのことをもって「自分は音楽家としてショパンよりも優れている」などと思うことはないでしょう。もしかしたら、ショパン本人ですら、現代の一流ピアニストほど完璧には自分の曲を弾くことはできなかったかもしれません。しかし、ショパンはその曲をゼロから作曲したのです。優れた即興演奏家としての彼は、もしかしたらそのレベルの音楽を、即興演奏で生み出すことができていたのかもしれないのです。

 

 自らを「音楽家」と自負するからには、やはり演奏能力だけでなく、音楽をゼロから産み出せる能力を身につけたいものです。

 

 「二兎を追うもの一途を得ず。演奏も作曲も即興演奏もすべてできるなんて、凡人には無理で、そりゃショパンが天才だったからだ!」いや、それは違います。優れた音楽の美しさを理解し表現できる演奏者であれば、ある程度の訓練によって、必ず即興や作曲の能力を(たとえショパンのレベルに達することはできないとしても…)身につけることができます。ショパンの生きた時代には、それなりのレベルで作曲や即興をできる演奏家が数多くいたという土壌があったからこそ、その中からいわゆる少数の天才と呼ばれる音楽家が傑出することができたと思えるのです。 

 

 楽器演奏能力、作曲能力、即興能力の3拍子が揃って、ようやく完全な「音楽家」としての素養を修養したことになるのであって、この3つの能力をバランス良く発達させることにより、相互作用的に音楽家としての精神性、身体能力、美的感覚、創作意欲などが向上すると思っています。その上で、実際には、作曲、即興、演奏のうち、最も得意なものを専門的に極めるというところに落ち着くことになるのでしょう。仮に、楽譜から演奏するということを専門とすることを目指した場合、その過程で作曲も即興も身につけられる教育システムがきれば、演奏家としての挫折しそうになっても、作編曲や即興演奏の方向で音楽を続けるも広がるでしょうし、その逆も然りです。

 

 楽器と教育が普及している現代においては、演奏、作編曲、即興演奏の各能力のバランスのとれた音楽家を多数育成することで、音楽家の平均的創造能力を過去の黄金期を超えるところまで持ち上げることも不可能ではないと考えています。