この曲は一言で分かりやすく言うと、私のアイデンティティそのものと言える。


従って、詳しく紐解くならば何冊でも本が書けるぐらいの分量になってしまう。





私が普段から考える事柄の一つに


「洗練は退化の始まり」


がある。





クリエイターは自分の中に浮遊している思い、情熱、魂、また言葉にできない不安定な何かを


なんらかの感覚器で捉える事が出来るように固定する事が目的である。


その目的を妥協無く達するのはそう容易な事ではなく、


その為には固定する為の手段=技法を鍛え上げ磨かなければならない。


如何に素晴らしい感性があろうとも、単語や文法を知らねば文章を書く事すらままならない。



しかし技術が上達するに従って、本来手段である筈の技術は容易に目的にすり替わってしまう。


「手段の目的化」である。


「技術」や「洗練」は宗教のようなものだ。そう「お金」の持つ本質に至極似ている。




「技術」もそうだが「洗練」の魔力も恐ろしい。



「洗練」の副作用で最も性質が悪いのは、


洗練のステージが高まるに従い、より容易く「思考停止」状態に陥るようになる事だ。




ひとつ極めて簡単な例を挙げてみる。


実際はこのように単純な話ではないが、この例なら、音楽を生業としていない人にもわかるであろう。



通常ポップスの歌モノにはAメロがあり、その次にAメロを踏襲した形でA´メロが現れる。


何故なら、そのようにメロディを(正確には総体としてであるが)作れば、取り合えず「赤点」にはならないからだ。


そのように作ればなんとなく体裁が整った感じが、そう、垢抜けた感じがするのだ。


A´メロではなく、いきなりBメロが来る場合にしても、


そのAメロ自体が一つのモティーフやパッセージのバリエーションで紡がれている事が殆どだ。




つまり、その類の知識を知り、その知識を操る技術を学び、そして洗練してゆくに従って、


その知識の「洗練」と言う武器が、絶大な威力を持つ事を知るに至る。


そうした時、人は真の意味でニュートラルな価値観に戻る事が極めて難しくなってしまうのだ。



例えば、私たちがデタラメな日本語を話す事が極めて困難な事にも似ている。


出来たとしてもそれは「デタラメな日本語のフォーマット」と言うプログラムのアウトプットを洗練させ上達しただけなのだ。


その「デタラメ日本語」をよく観察すれば、様々な法則を見つける事が出来る。

(これは自分が頻繁に用いる技法であるから良く分かる)




作曲家がある一つのアイデアを形にし、その後の音を紡いでゆこうとした時、


作曲家の前には何らかの既存のフォーマットが十重二十重に蜘蛛の巣の如く絡み合い横たわっていて、


そしてその作曲家が識者であれば、真の表現を見つけ有機的に紡いでいくのは、


極めて困難で多岐に渡る優れた能力と経験、そして忍耐が必要である事を知り、絶望してもおかしくは無い。


絶望した事が無いのであれば、それは残念ながら、いまだそのステージに至っていないだけである。



ここで言いたいのは、所謂フォーマット自体が悪いのではなく、


ある現象をフォーマット化して、言わば「思考停止」状態のまま、


そのシステムを採用する事が、洗練の副作用にあたる、と言う事である。




例えば一つのパッセージが浮かんだとして、何らかの既成のフォーマットに則って音を固定していった場合、


その次にくる音が本当に理想の音なのかと言えば、恐らく100%の確率で違うだろう。




では、何故作曲家は、一つ一つの物理現象を精査して一つの音を選んでいく作業を怠るのか。


それはその行為が費用対効果があまりにも悪く、膨大な時間とエネルギーを要するからだ。


合理的に考えてあまりにも馬鹿げている。



これはたったひとつの例であるが、洗練による思考停止状態は、全ての人に、


しかも知識、技術があり合理的に考える事が出来る人ほど深く陥りやすい。




このParanoid sinfoniaを制作するにあたり、常に心がけたのはまさにその事であった。


高い洗練を保ちつつ創造性を研ぎ澄ませ、如何なるディテールに関して一切の妥協=思考停止を許さない。


これを一つの曲に固定する為にまる2年の歳月を要した。




そしてこの曲を精査するにあたり、一切の妥協が介在しないようにする為にはどうするのかを考えた。




その結論は、


「この曲を他人が作った曲だとして聴いた時、嫉妬でいてもたってもいられなくなるか」




この価値観を以って精査する。




嫉妬は冷静で理知的な人をも狂わせる狂気の感情であるが、


同時に自分を冷静に見つめなおす最強の武器にもなり得る。




嫉妬は神が与え賜うた最高のプレゼント。





この曲は今現在、その条件を余すことなく満たし、今の私にとってアイデンティティであり続けている。