syrup16g『HURT』 | MUSIC TREE

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邦ロックを中心に批評していく
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正常なのは、五十嵐隆の方だったんだよ。そんな物思いに耽っていた。

振り返れば6年ぶりの復活アルバムとなったが、僕の中では、2004年の作品『Mouth to Mouse』以降、彼らの時間は止まっていた、そんな印象を持っている。あの頃メジャーシーンにいたこともあるし、バンドとして地上に立っていたのがその頃だったからだ。それからライブ活動はあっても作品発表は無く、2008年の実質的なラスト作『syrup16g』、武道館公演でバンドの幕は閉じた。

おそらく、ライブ活動だけをやり続けていた頃が、一番ロックバンドとして正常であったと思う。つまり五十嵐の中にある何がしかの黒い塊を吐き出し、それに共鳴するオーディエンスと絡むことから生まれる物体、そこにこそロックたらしめるものがあったのだ。
結果として、瞬間的に出し尽くした彼は、一つの燃え尽き感と到達点に達してしまい、バンドを終幕せざるを得なかったのだろう。

あの頃、五十嵐が出し尽くしたものは、異常な狂気だった。その時の彼は、言うなれば、人間の域を少しばかり超えていたし、やっぱり異常だった、そういった人物が偶然にもロックと交わったことにより、あの内面にモンスターを飼っている様な唯一無二のロックバンドが生まれたのだ。

昔ヤバかったロックスターが、今はまともになったという普通の話をしたいわけではない。特に五十嵐に限っては。何故なら、元々彼は普通の人以上に、まとも過ぎる人間だからだ。つまり、まともな人間が正常に生きられない今を憂い、嘆き、怒りをぶつける。その当時、五十嵐にインタビューした人が、プライベートでは友達になりたくたいと話していた様に、あの時の彼は一線を越える雰囲気を醸し出していたのだろう。
おそらく曲がりなりにも、この浮世を節操なく生きてれている人たちにとっては、五十嵐の叫びは、生々しい過ぎて、普通なら避けて進もうとするところを真っ正面から切り込むスタイルだった。それには、口をぽかんと開けるしかなく、正に”こころと向き合うなんて 無謀さ”という歌詞みたいになるのだ。
彼はそういう本当の心の叫びを穿った結果、ロックに辿りついただけなのだ。その歌に出会った僕たちは、ただそこにあるリアルを感じるしか無かったし、むしろそれ以外の方法で彼の音楽と対峙することは出来なかったわけだ。

作風として、『HURT』はラストアルバムの延長線上にある。あの全てから解き放たれた、ホワイトジャケット作品から今作へ繋がっているのは純真さだ。全体像を見ると、シロップの初期を思わすハードな曲から始まり、古典的なロックを踏襲した楽曲、フォーキーで、情緒性豊かな曲などが作品を彩る。
「生きているよりマシさ」からのラスト3曲は、名曲「センチメンタル」や「Everseen」の色彩を感じさせるもので、且つ今鳴らすべき曲になっている。楽曲を覆うポップさも、彼のとてつもないシリアスなメッセージを少なからず、あっさりとさせる隠し味だったりする。

最初に彼が「正常」と言ったが、それは、”死んでいる方がマシさ”という歌詞からもわかる。
おそらく、正常に生きれないなら死んでいる方がマシだ、という思いがそこには込められているのだと思う。正常を終わらした彼が、再び正常であることを歌い始めた。

正しく生きることを良しとさせない世相から、ついにあたりまえの正常さえ奪われた今、五十嵐隆が歌うことは必然だった気がする。復活については色々な捉え方が出来るけど、僕が言えるのは、あのままsyrup16gの時間が止まったままでいるよりはマシさということ位だ。