1975年(昭和50年)のG Wに観られなかった映画は「フロント・ページ」 | あずき年代記

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G W、ゴールデンウィークということばは、それこそゴールデンだったころの映画界が流行らせ、定着したことばである。


当方が封切りの映画を観出したのは、高校生になってから。


とはいえ、観る映画の大半は名画座ばかりだった。

名画座と吉野家の時代だ、個人的には。


1975年(昭和50年)のG Wは、友人と銀座みゆき座で「フロント・ページ」という喜劇映画を観ようとした。


監督ビリー・ワイルダー、ジャック・レモン&ウォルター・マッソーのW主演。


当時としては鉄板の陣容である。


で、初回を観るべく早めに家を出て友人とみゆき座前で待ち合わせたが、十重二十重の人垣が出来ていて、観られなかった。


そのあとなにをしたのか、この記憶はない。


「フロント・ページ」は、それから2年後くらいに名画座で観た記憶がある。


スクープを抜くことにえげつない新聞記者たちの話で原作は「犯罪都市」という戯曲。


「ヒズ・ガール・イズ・フライデー」というタイトルで、すでに1940年に映画化されており、こちらは、大陸書房の安売りビデオを神保町書泉グランデの地下で買って観た。30歳のころだ。


監督=ハワード・ホークス、主演=ケーリー・グラント&ロザリンド・ラッセル。


ラブコメでもあったからテンポ快調、ケーリー・グラントのC調さに笑った。


「フロント・ページ」の怒鳴り合う上司のマッソー、部下レモンの応酬は、長門裕之&西田敏行の「池中玄太80キロ」に影響を与えたとおもう。


同年の75年秋、京橋のテアトル東京で完全版の「七人の侍」を観て、映画に心身を雷撃されたような感銘を覚えた。


同年暮は、丸の内で、ポール・マザースキー監督、アート・カーニー主演の「ハリーとトント」を観た。老人と猫のロードムービーで、小津安二郎の「東京物語」をヒントにしていたと近年、気がついた。


アメリカン・ニューシネマは終焉、といって、まだルーカス、スピルバーグの時代は本格化していないから、ハリウッド映画にも地味な佳作が少なくない。あのスコセッシ監督が成瀬巳喜男の映画をチェックしていたのだから…


このころ、日本の首相は、三木武夫。


金権、ダーティーな田中角栄のあとにクリーンでリベラルな三木武夫なのだから、明らかにいまの自民党より選手層が厚い。


三木武夫、宇都宮徳馬といった左派を抱えていたのであるから、いまの立憲民主党を党内野党として取り込み、自民党内で政権交代していたようなものである。


公明党や旧統一教会に支えられている自民党は歴史的使命を疾に終えているのだ。


レコ大は、布施明さんの「シクラメンのかほり」。

前年は森進一さんの「襟裳岬」だからフォーク調歌謡曲全盛であった。


日本シリーズは阪急VS広島で、阪急が制した。

ここからブレーブスは日本一3連覇である。


上田監督のほうが前任者西本幸雄さんより戦術家だった。