映画「夜明けのすべて」を観た。人間は神になれることもある。 | あずき年代記

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映画「夜明けのすべて」を吉祥寺の映画館で観た。


自他の精神的外傷に付き添い、また付き添われ、お互い、上手くすればお互いに救済さえできるのはやはり生身の人間だなぁとおもわせてくれる映画だった。


その生身の人間が、家族、恋人、友人である必要はない。


古めかしいことばを用いれば縁ということになるのかもしれない。


令和の新しい人間関係を模索していた、ともいえるのだが…。


山城むつみさんの大著「ドストエフスキー」によれば、神とは人間同士の関係性のなかに現れるものだそうである。


だれもが神になる瞬間、つまり救済できる立場になりうることは、たしかにドストエフスキーの遺作「カラマーゾフの兄弟」に描かれている。


陰惨、悲惨、酸鼻なできごとが続けば続くほど、おもいがけないひとが傷ついた他者を慰撫するーたぶん無意識のうちにーシーンが際立ってくるので、この時折り顕現するカタルシスが「カラマーゾフの兄弟」が半永久にもよまれ継がれる核心をなしている。


「夜明けのすべて」には天=星星の視点が導入され、それが大いなるものを感じさせるが、「カラマーゾフの兄弟」にも一箇所だけ美しい夜空の描写があり、それはロシア正教というよりもアジア的な啓示だった。


「夜明けのすべて」に差し挟まれる地震の場景が不可解だというレビューをよんだが、登場人物たちの何人かは1995年に打撃を受けていることの暗示であり、日本の崩壊はこの年からはじまっていることへの示唆でもあるだろう。


その恐怖と不安は東日本大震災、熊本の震災、今年元日の能登の震災と連続しているので、監督が地震を真の国難と認識しているとわたしは感じた。


さて、ここまでなんとかあまりネタバレせずに書き進めてきたつもりである。


白石萌音さんと松村北斗さんのW主演。

神木隆之介さんと浜辺美波さんと同パターンである。

朝ドラでも映画でもコンビということだ。