価値観のアップデートではない。コペルニクス的転回ではないか? | あずき年代記

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ジェンダー、フェミニズム、多様性といった問題を考えるとき、価値観のアップデートを、とよく言われるが、このことばは軽すぎるとおもっていた。


あれこれじぶんなりに考えていたが、コペルニクス的転回というカントのことばが相応しいのではないかと考えるようになった。


地動説はコペルニクスからガリレオに繋がってゆくが、コペルニクス以前にも地動説を考えついていた学者たちがいるようである。


フェミニズムについても、いうまでもなく歴史がある。


私がはじめて知ったのは、ボーヴォワールの有名なことば、


「ひとは女に生まれるのではない。女になるのである。」


からである。


しかし、ボーヴォワールの著作はよんだことがない。


サルトルとのパートナーシップが有名で、実情はわからないにしても、理想の男女のあり方と言われることがあった。


サルトルは、「嘔吐」と短篇集「水いらず」をよんだだけである。


「嘔吐」には同性からの性加害も描かれていた。


ボーヴォワール・サルトルと同時代人だったせいか、ジョン・レノンとオノ・ヨーコはそのポップカルチャー版と見做す風潮があったように記憶するが、これはわたしの偏見かもしれない。


日本のフェミニズム運動で忘れられないのは、「中ピ連・女を泣き寝入りさせない会の」榎美沙子さんである。


ただこのひとは志がオーバーランし、テレビの色ものみたいになってしまったのが失敗だった。


70年代半ばの大晦日、日本テレビは、紅白歌合戦の裏に、コント55号の即興ナマ番組をぶっつけていたが、サプライズで榎さんとその同志たちが角棒を振りかざして客席に乱入、舞台上の萩本欽一さんを絶句、蒼白させていた。


萩本さんは長年事実婚を隠していたからパートナーから榎さんサイドになにか訴えられたと勘違いしたものだろう。


しかし榎さんのこういう露出の仕方は、日本のフェミニズム運動を遅らせることになった。


オノ・ヨーコさんはオイルショックのころ、「女性上位万歳」という歌を出し、わたしはラジオの深夜放送で耳にした。


当時は過激な歌詞だと感じたが、いまその歌詞をよみかえしてみると首肯する。自民党議員に聴かせてやりたいほどである。


「女性上位万歳」は小泉今日子さんがカヴァーしており、小泉さんもまたコペルニクス的転回を遂げたという感慨に浸るのである。