1978年の京都ベラミ。日本の首領狙撃事件は実録映画の実録だった。 | あずき年代記

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ブログの恥はかき捨てかな…

本日、3本め。


どうにもむしゃくしゃして虫が収まらない。


いまから10年ほどまえ、小林幸子さんと夏木マリさんが対談しているのをテレビで観た。


おふたりは売れないころ、よくキャバレーまわりで一緒になった仲だそうである。


キャバレーにもピンからキリまであり、京都のキャバレー(クラブ)ベラミともなれば超A級だった由。


ベラミ(フランス語で美貌の友といった意味)と聞いてドキリとした。


そんな最高級キャバレーに行ったことはない、むろん。


だが胸騒ぎを覚えたのは、1978年7月、同店内で山口3代目組長田岡一雄氏が拳銃で首を撃たれた衝撃が甦るからである。


田岡氏はすぐに病院に運ばれ、一命を取り留めた。


加害者は敵対する集団のNという若い男で、足裏を見せるように疾走して行方を眩ませた。


流れ弾で負傷した客が何人かおり、田岡氏は病院から若い者たちをすぐさま見舞に行かせたという。


「わしを狙うとはたいした度胸や。そやけどさすがにびびってたんやろな。びびったぶんだけ急所を外したわ」


と病室付き添いの子分に語ったと猪野健治氏の著書で読んだ。


1978年=昭和53年は近年の夏とおなじく猛烈に暑かった。


北九州では5月あたりから断水がはじまっていた。

インベーダーゲームがブームとなり、喫茶店で莫迦話ができなくなった。


円高不況で景気はわるい。

日米貿易摩擦がはじまっていた。円高だからサイパン・グアム・ハワイをスルーして米国西海岸に観光するJALのツアー客たちが米国人の脅威になりつつあった。流行らなかったが、第二のパールハーバーという用語を日本経済新聞で目にした。


不況の皺寄せは就活の大学生に及んだ。とくに四年制の女子である。真夏にリクルートスーツで先輩の勤める会社まわりをしていると、スーツの背が汗でびしょびしょに濡れてきたと1956年4月生まれの泉麻人さんはエッセイに書き記している。泉さんによれば街から街を渡り歩いていると、有線放送からやたらと「勝手にシンドバッド」が鳴り響いてきたという。間奏の部分で挟まれるキーンという電子音はスペースインベーダーから拝借してきたものだろうという指摘が、泉さんらしい。


首相は、福田赳夫。

自民党清和会トップ。

旧統一教会の創始者文鮮明を、アジアに偉大な指導者現るとパーティで持ち上げている。経済通と目されていたが、メディアの表語はむかしもいまも当てにならない。打つ手を失った福田首相は、隅田川の花火大会を復活させた。人心を宥めるためのイベントであり、八代将軍吉宗からのパクりだろう。前年の王貞治さんの国民栄誉賞受賞とおなじ絡繰りである。


ボブ・ディラン武道館コンサート。しかし大衆に迎えられていたのはピンクレディーだった。最初の「スター・ウォーズ」米国より1年遅れで公開。


事実は虚構を模倣するという。

田岡一雄氏狙撃事件がその典型であり、東映の実録物のそのまた実録みたいにおもわれた。


実際、当日田岡氏は京都東映撮影所で「日本の首領(ドン)」を見学、東映のスタッフを労うために「ベラミ」を訪れていたという。


田岡氏は退院後、ベラミのオーナー、ママらを料亭に招いて謝罪、今後任侠関係者は出入り禁止を確約した。


9月、行方不明のNの死体が京都郊外の山中から発見された。加害者の指紋その他は綺麗に拭き消されていた。報復ではないらしいというのが警察の見解である。Nが所属していた組織による始末らしいが、似たような措置は幕末の志士たちも取っている。


廣岡達朗さん(御年92歳、ご健在)率いるヤクルト、阪急を破って日本1。巨人は8月までヤクルトに約5ゲーム差をつけて首位に立っていたのに、ミスターがイメージ・キャラクターをつとめていたバンホーテンココワが、「今年もVです。バンホーテン」というコピーがでかでかとかかれたポスターを国鉄駅(いまのJR)各所構内に貼り出したあたりから失速、世間の失笑を買った。


「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」という本が売れだすのは翌79年であり、まだ新卒採用は抑えられていたものの、そろそろ軽佻浮薄なる80年代のから騒ぎ序曲が鳴り出していた。


こうおもいかえすと、78年5月に起きた落語協会分裂騒動は落語協会副会長だった金原亭馬生師匠が願ったように、


「すべては洒落」


だったように見えてくる。

成田闘争とはわけがちがう。


46年まえのことの方が数年まえのそれより記憶鮮明です。


なんのせいでしょう?