話題、かえます。
「黒の舟唄」という曲がある。
名曲なり、と、おもう。
でも、いまじゃOUTでしょう。
歌詞ののっけから、
男と女のあいだには深くて暗い河がある
だもんね。
そんな河は存在しないのだ。
ない、はずである。
ない、ようにおもわぬでもない。
ごくチョッピリ、蝉のお小水ほどの水溜りくらいはあるような気はするような…
…桑田佳祐さんは「黒の舟唄」もカバーしている。
1994年にリリースされた「真夜中のダンディー」のカップリング。
リリース前後、週刊文寸が桑田氏にロングインタビューを試みた。
記憶しているコメントを脳裡からスマホに写す。
…もうオレも40が見えてきましたからねえ。いまさらラブソングでもないかなあ。サザンは湘南サウンドなんて言われるけど、ぼくの小さいころは湘南の海なんてなにもなかった。でも波風の伝道師なんておだてられると、すぐに、波音が響けば…なんて歌詞平気で書けちゃうんですよ。ホントは波風のペテン師だから(笑)。
ここで「黒の舟唄」の話題に移り、記者氏がさっき野坂昭如さんに聴いてもらったら、なかなかいいとおっしゃってましたよ、と、桑田氏をノセる。
え、本当ですか?そりゃうれしいなあ。「黒の舟唄」は長谷川きよしさんはじめいろんな方が歌っていらっしゃいますけど、ぼくは野坂さんがいちばんいいとおもってるんで。
「黒の舟唄」が世に出たのは70年代だと記憶するが、五木寛之さんは週刊朝日の連載エッセイで、男と女のあいだに河なんてない、いま求められるのは本来の意味でのパートナーシップだと強調していた。
当時は、なるほどそういう考え方もあるなと感じたが、その後、花田清輝のエッセイをまとめて読むようになってから、五木さんの思考パターンは、ほぼ花田のコピー、それもかなり水割りされたものだとわかった。
なにしろ花田清輝は早くも戦時中に、バルザックは三十にならないと女は描けないといったが、そんなのはウソであり、駄目なやつは三十になったって女も男も描けないとバッサリ斬り捨てているのである。
よくかくことだが、大正デモクラシー下で育った1909年生まれの作家の方が、いわゆる戦中派より開明的である。
だが1909年生まれでも太宰治は信用ならない。
「女類」なんて短篇をかいてますからな。
女と男はおなじ人類だとおもうから噛み合わない、人類、男類、女類と分けて考えないとという、酷い小説である。「男女同権」という短篇も同様の内容。
なのに太宰は令和のいまも人気なのが解せない。
高見順、吉行淳之介、檀一雄、伊集院静、色気のあると見られる男流作家たちは顔文一致だからなにごとも容認されるらしい。
不公平きわまる。
まだ作家になるまえの野坂昭如さんは、テレビのナマの座談会番組に、例のごとくに酔って出て、太宰の「女類」を念頭に置いていたものらしく、
「女は人類ではない」
と妄言して、テレビや雑誌の対談からいっせい干される。60年代前半でも許されない発言だったのである。
しかしこの妄言後からおよそ2週間でタカラジェンヌと結婚発表、さらに世間の顰蹙を買った。
もうおわかりであろう、野坂昭如は炎上商法を企んでいたのである。
ま、飛鳥時代にスマホはなかったからなあ…