大岡昇平からの引用。大岡昇平がかろうじていまでも読まれている理由がわかるだろう。 | あずき年代記

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大岡昇平「証言その時々」(講談社学術文庫)から三か所引用する。


それらは普遍のリアリティとアクチュアリティを獲得している。


「戦後二十年、私はもう56歳である。この先何年生きられるか。日本はこれからどうなろうと、よし人類が滅亡しようと、どっちでもいいといえないこともない。しかし将来に幸福の可能性を持った若者たち、私の娘や息子はどうだろうか。これからの兵隊は五十歳以上に限るということにならないだろうか。」


1965年8月14日、東京新聞に掲載されたエッセイである。


末尾の一行が、非常に怖い。大岡昇平さんのご子息は渋谷109の名付け親である。一部内装、つまりインテリアも手がけている。


「私は不覚にも、昭和四十八年の石油ショックで、日本人は高度成長の夢からさめ、内政整備に専念して、少しはましな世の中になるのか、と思った。低成長を赤字国債で乗り切り、アメリカと同調してSD I(注・スターウォーズ計画というふざけた名前で呼ばれた米国のミサイル迎撃システム)に理解を示して、利潤の確保の冒険に乗り出そうとは、思いもよらなかった。」


1985年「群像」8月号に掲載されたエッセイ。赤字国債でその場を凌ぎ、米国追従一辺倒という基本パターンは40年変わっていない。


「チェルノブイリ原発事故については、もはや語り尽くされた、といえよう。百万分の一の確率と言われて、ほんとうは安心してはいけなかったのだが、スリーマイルから七年目、こんな間隔で地球上のどこかでやられてはたまらない。

 狭い地震国日本に三十二もあるのはいやな気持ちだ。方式がちがう、厚い壁で固めてあるから大丈夫というけれど、だんだん増え行ったのだから、型もさまざまだろう。部品入れ替えの時機が来ているものもあろう。日本中の原発即時総点検の決断を、鉄血首相(注・中曽根康弘のこと)に乞い願わずにはいられない。」 


1986年8月21日の讀賣新聞に掲載されたエッセイ。末尾の1行は、中曽根と讀賣のボス、ナベツネ氏が懇意であることを念頭に置いたものだろう。


昭和の小説家で戦前を代表するのが谷崎潤一郎なら、戦後は大岡昇平であるというのが私見である。


戦後長編小説ベスト3には、大岡昇平「レイテ戦記」、安岡章太郎「流離譚」、北杜夫「楡家の人びと」を選びたい。


いずれも広義の歴史文藝である。

過去からしか学べないわたしの限界は自覚している。


このベスト3についてはいずれまた…


気象は去年以上に不安定である。