毎晩、夜9時に寝るわたし。
が、昨夜は10時まで起きてリアルタイムで「不適切にもほどがある!」を視聴した。
小泉今日子さん登場に驚きました。
テレビのコンプライアンスを牛耳っているのはテレビを観ずに批判するネット住民、すなわちひとりひとりの貌が見えない無責任な「世間」、だからいまのテレビはテレビを観ないひとたちに向かって発信しなければならないという皮肉に笑った。
「『世間』ていったいだれなんだよ?」
と、主役の阿部サダヲさんはいきりたつ。
正論、であろう。
世間・空気・同調圧力といったことばは、同意語だろう。
ネットが普及する以前に、日本人のメンタリティを支配しているものは、もやもやと真綿で首を絞めつけてくるような「世間」であると指摘していたのはドイツの中世史を専攻していた歴史学者・阿部謹也さん(故人)である。
一橋大学の学長でもあった阿部さんは卒業式のスピーチで、
「みなさんは社会に出るのではありません。世間に出るのです。ですから間違っても個性的になろうとなどと考えてはいけません。まずは様子をよく見ることです」
と訓示していたそうである。
20世紀後半か、21世紀はじめのことだから、いまの世をよく見越していたし、また、まことにプラクティカルなアドバイスをしていたことになる。
ただし阿部謹也さんは日本には社会がなくて世間があるということを肯定しているわけではない。
グローバリズムが進めば内向きの世間対応では世界から置いてけぼりにされることも指摘しているのだ。
日本で、例外的に個人を堅持しようとすれば隠者になるしかないと阿部さんは断言する。「世間」を対象化できるのは隠者だけとも阿部さんはいう。
つまり、鴨長明、吉田兼好らだろう。
現代ではそんな生き方は無理だろうとおもわれるだろうが、隠者的な生き方はいまでも有効であると阿部さんは説く。
昭和のむかしとはいえ、なるほど永井荷風や内田百閒は隠者の生き方を実践した。
隠遁するには群れなくても平気、よみかきだけしていれば満足という精神構造、それと、多少のオアシがいる。
わたしが阿部謹也さんの著作を系統的によんだのは、わたしとしては忙しかったころで、おれも五十すぎたら隠遁を決め込もうと漠と決意した。
「世間」は閉鎖的かつ排他的であるから差別の温床になることについても阿部さんは言及している。