ミルティン・ミランコビッチ②
前回の記事 で示したグラフは極めて単純化したもの(というか、考え方を示しただけのもの)で、実際にミランコビッチが示したのは以下のような図でした。
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図1:北緯65°の地点が夏に受ける日射強度を示したもの。この当時は過去の気温など分かっていなかったことに留意。
縦軸は、現在の北緯何度に相当する日射があったかを示す。例えば今から23万年前(リス氷期初期)では、北緯65°では北緯77°に相当する日射しか受けていなかったことになる。4度あった氷期には、確かに北緯65°付近の日射が少ない時が多いことが分かる。Encyclopedia of Earth より。
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前回書いた通り、ミランコビッチ本人も、ミランコビッチの理論も、苦難の道を歩みました。
ミランコビッチはセルビア生まれですが、当時のセルビアはオスマン帝国からの独立をめぐり、オーストリアやロシアも巻き込んだ極めて困難な情勢下にありました。1878年、セルビアは一応の独立を勝ち取りますが、独立後も内紛や対外戦争(バルカン戦争など)が続き、さらには第一次世界大戦へと突入していきます。
ミランコビッチも影響はまぬがれえず、投獄されハンガリーに送られたり、軍の仕事をさせられたりしています。さらにはナチスドイツによる占領も経験し、激動の人生だったと言えるでしょう。
また、ミランコビッチの「理論」も、たやすくは受け入れられませんでした。
現在、過去の気温変化はかなり正確にかつ長期にわたり理解されています。しかし、当時はまだまったくと言っていいほど過去の気温は分かっていませんでした。氷期が過去に4回あったことは分かっていましたが、その年代はよく分かっていなかったのです。
後年、限られた情報から過去の氷期の時期が推定されました。しかし、推定された氷期の時期と、ミランコビッチの計算した北半球高緯度地域への日射の減少期は、一致しなかったのです。また、太陽入射の変動はあったとしても、気候の変動をもたらすほどの差ではない、という意見が大勢を占めていました。
ミランコビッチ・サイクルは、否定されたわけではありませんが非主流のアイデアとして扱われました。ミランコビッチはナチス占領を境に学問の世界から身を引き、自説を強く主張するようなこともしませんでした。自身のやるべきことはやった、と考えていたようです。ミランコビッチの晩年は静かで穏やかなものだったようです。
1955年、新たな方法により過去の気温を正確に再現する方法が開発されました。その方法によると、ミランコビッチの予測したサイクルと過去の氷期のサイクルは一致していたことが明らかになったのです(ただし即座に受け入れられたわけではありません、まだ議論の余地の多いものでした)。
すでに最晩年を迎えていたミランコビッチは、この論文を読んでいたようです。ミランコビッチがそれを読んで何を思ったかは分かりません。死の直前に自説が正しい可能性が高い、と認められるのはどんな気持ちなのでしょうか。
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図2:現在のミランコビッチ・サイクル。上から順に、歳差(約2万年周期)・地軸の傾き(約4万年周期)・離心率の変化(約10万年周期)・3要素の合計(北緯65°への入射強度)・実際の気温変動を示す。
3要素の合計グラフと実際の気温変動は相関がある。ただし単純な相関関係ではない。この3要素以外にも多数の要素がかかわってくるためである。3要素以外の要素についてはいずれ。
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