地域コミュニティづくりは、既に存在している「様々な地域コミュニティ」を否定するのではなく、その継承を前提に改革していくことが重要です。同時に相手の見える距離で、ひとりずつとの関係づくりが基礎となります。「関係を増やす」という感覚で進めていくつもりです。
時間のある高齢者の市民力を活用して、地域教育を進めたいと考えて、色々地域の高齢者に会ってみました。
中々手ごわい方々です。
「そんなことはやりたい人にさせとけばいいんだよ。俺は…・。こんな提案があるんだよ。君もやってみないか?手伝ってくれよ。」
「君もわかってないね。無理無理、この地域での経験がないからわからないのかもしれないけど、地域住民はもちろん、市役所などの行政が怠慢だからね。この町は。金儲けだったら、直ぐに動くけど。難しいよ。」
結果、「ありがとうございました。もっと勉強して、チャレンジしてみます。」
諦めずに仲間を探し続けます。
元々、地域コミュニティがある場合は別にして、近所付き合いなどの無い地域でのこうしたコミュニティづくりには、色々な課題があります。
「何のために、コミュニティが必要か」ということをそれぞれの家庭に問いかけた場合、それぞれのまちまちな答えが返ってきます。
基本的にコミュニケーションなど必要なの?というようなもの
「必要と思っていない。」
「特に地域コミュニティの必要性を考えたことなどない。」
というものから、近所の問題を解決してくれるならという意味で
「隣の犬がうるさいので何とかしてほしい。」
「近所の落ち葉がすごくて、我が家にも飛んできて困っている。」
「夜、近くのアパートの学生が騒ぐのでなんとかしてほしい。」
「犬の散歩をしている人に糞の始末をきちんとするように言ってほしい。」
などという苦情を述べ立てて、地域コミュニティがそれを解決してくれるなら、必要かもという意見を述べる人まで、様々です。
それ以前に、「隣は何する人ぞ」と、ほとんど知らないなどという場合も多くあります。基本的には、子供を近くの公園で遊ばせたり、同じ学校の子供がいる、近くの病院に通っている近所のお年寄り仲間が住んでいるなど、必要に迫られて、知り合いになり、交流するようになったという自然発生的なコミュニケーションの延長上や趣味のサークルなどのきっかけで知り合った近所の家族などというものが核になった付き合いがほとんどのようです。そうした意味では、「子供」「趣味」が基本でその次に「近所の問題解決を一緒に」といったものが「住宅地」の地域コミュニティの基本となるようです。
新しい飲食店が近所にオープンするのは、楽しいものなのです。
どんな店?お昼に、夜に利用してみて、色々な発見があるものです。
ただ、利用する人が少なければ、閉店の憂き目に…。
頑張ってほしいとおもいつつ、利用してみる。
と、「これじゃあなあ」、とか「もう少し、こうならなあ」とか、色々な感慨もわきます。
ひとぞれぞれなので、気に入るお客が多ければ、長続きすることになります。
でも、気に入る店の数はそう多くないのが現状です。結果、「いつまでもつかな?」と思ってしまいます。
今日、ランチを食べた、東小金井南口のイタリアンレストラン。
一応、昼のランチだけで、しかもオープン3日目では、判断も難しいので、もう一度、夜に利用させて
もらおうと思います。まだ、スタッフもヘルプの臨時スタッフかも。
お金をかけて内装もし、きれいな店内。居心地は結構良い店でした。
料理と接客は、厳しく見ると、50点。コストパフォーマンスから見れば、もっと良い点になるかもしれません。
今度は、夜に挑戦して、最終報告をしたいと思います。
日本文化というと何かすごいもので、地方文化というと単なる地域色だという認識は、どこから来ているのだろう。
江戸時代の地域文化。江戸に限らない、地域の文化、風土が総体として、日本の風土を形成している。
地域の風土、風土(知)は、都会、都市部の知に劣るものなどでなく、その知を掘り出す地域の人々の努力が無くては、無いに等しいということなのだろう。
地域同士は、密接に絡み合い、総体としての日本文化(?)、この地域の民族文化を形成していく。視点をどこに置いて、文化、その知を掘り出し、創造していくかが問われている。
それぞれの場所、地域がすごいから、この国がすごいのだと思える時代を考え続ける努力。人と、人の紡ぐ、歴史、時間が鍵になる。
幼いころからの記憶に焼き付いている故郷の風景や出来事の映像は、久しぶりに帰省して、目にするといかに自分にとって大事なものだったのかが解るものです。
小さい頃に父に連れられてよく通った公園の何気ない木立の影や小さな小山。それが妙に懐かしく、「こんな小さな山だったのか」とか、「大きなクスノキはいまでも堂々として、まだ公園の主のようにそびえているなあ」といった具合に…。
この風景が失われるとしたら、何とかその風景が失われるのを止めたいと思うなら、その記憶の宝は、その人にかけがえのないものであるに違いないと思います。
そこに住む人々の共有財産ともいえる「風景」を大切に思う。そんなことを実家の近くの改修が進む公園でぼんやり考えました。そんな公園を大事にする公園行政を進めてほしい。公園をきれいにする?便利にする?もちろん、そうした目的であることもわかっているのです。ただ、…。そんな人々の想いもあることを知ってほしいと思います。
風景画や写真作品を見るたびにその作家の居場所、土地の記憶の宝と向き合っているのだと思うことがあります。
あなたの記憶の宝となる風景はどんな風景ですか?
ハル・マルコヴィッツの子ども向けの「名作を生んだ作家の伝記シリーズ」でモーリス・センダックの「かいじゅうたち」の世界へを読む。
ちょうど、「まどのそとの そのまたむこう」の挿絵を見てきた後だったこともあり、センダックの絵本論「コールデコットとその一座」も手にした後だったので、また違った意味で興味深い内容でした。
「写真を切り取る才能」と「その才能が宿った肉体」の奇妙なバランス

イメージフォーラムの前で上映を待つ人が、何か奇妙な彫刻のように見えた日でした。
いまでは、アマゾンでもヴィヴィアン・マイヤーの写真集は入手できます。こちらをご覧ください。
