禅 と米国文化
ところでミニマリストたちの本を読んでみれば、そこでいつも重要視されているのがZenの影響で、これはほんとに根が深い現象だと思い知らされる。インドで生まれ中国で発展し日本に至った禅は、鈴木大拙などの努力によってすでにアメリカにその拠点が移ってしまったかのようだ。そこでは禅が現代の日本よりもよほど深く根づいているような気がする。そして日本のアニメや寿司などがいくら流行っているといっても、それはまだ単に好き嫌いの段階でしかないのだろうけど、禅と俳句に関してはもはや好むと好まざるに関わらず米国文化に深く浸透しているようだから。禅を学びたければ日本の曹洞宗の寺などに行くよりも、アメリカの教室で学ぶ方がよほど生きた禅を学べるような気がするほどだから。全体国...いや禅大国アメリカ。。![]()
そしてこういう喧嘩教本にもZenの文字が~フォレスト・グリフィン 『やるか?』
。。何か孫子とカンフーが混在しているようだが。しかし著名な格闘家らしいこの人の著作、何か凄く面白そうでそのうち買うかも。序章にテストがあって、男の中の男しかこの本を読む資格はないという。40点で合格、30点なら読んでもいいけど胸毛生やせ、20点以下ならすぐにこの本から離れてパンティ穿いてリップ塗れ、と。その問題とは例えば、
Q:おまえはヒゲと陰毛のどちらを剃りますか?
A:
1-ヒゲだけ剃る~+0点
2-下だけ剃る~-5点
3-両方剃らない~+10点
4-両方剃るけど顔が先~+5点
5-両方剃るけど下が先~-15点
他にも、目が覚めたら隣に怖ろしく太った知らない女が寝ていました。どうしますか? とか。どうやら自分はとても合格できそうにないけど、先を読んでみたくなるよねー![]()
何かつり合いをとりたくなったので対照的な別本も紹介~性別の国のアリス
![]()
ミニマリスト
もう春だって? 早。ようやく霜焼も解けて普通の生活に戻りつつあります。それにしても1年半前に買ったAmazonのKindleはもはや不可欠の生活必需品となってる。冬の読書は本を押さえる手が凍えるけど、Kindleならボタン1回で捲れるし、読みあげ機能を使えば自動捲りもできるから手はずっと炬燵の中。ほんとにありがたかった。何よりも多くの本が目次と序章だけなら無料で炬燵に居ながらにして即手に入る。気に入れば炬燵に居ながらにして即購入。古い本ならパソコン経由だけどGutenbergなどで無料で手に入る。液晶じゃないから紙のように読みやすい。ああ夢のようだよね。ちなみに英語力はずっと高2程度だと思うけど、要は慣れだから~![]()
そんなわけで部屋の片付けの必要などにも迫られているので、刺激になりそうな指南本を漁っていた。断捨離とか近藤麻理恵についても一応ネットで把握できたけど、Kindle書店の方がよほど便利なんだよなー。そこで気づかされたのがMinimalistの流行。ミニマリズムとは元々美術系の言葉で、音楽ではSteve ReichやPhilip Glassがすぐに思い浮かぶし、さらにはそこから派生したミニマルテクノなどもあるけど、ここでは単に最小限の物や情報で自足する生活スタイルというような意味で使われているようだ。別に新しくもない考え方だろうけど、米国ではほんとに流行ってるらしい。憧れの?ミス・ミニマリスト![]()
ちなみに日本でのミニマリストといえば思い出すのが、やはり晩年の星一徹。古いアパートの和室に野球専用TVと煙管道具しかないその質素な生活の美しさ。あるいは伴宙太がトレードされて巨人の合宿所から中日に移るときの引越の印象的な場面。すべての荷物を二人で運んでタクシーで引越してたのが衝撃的だった。けどこういう写真
を見れば、それに近い生活をしている人たちはいくらでもいるのだと思うし、自分が物持ちすぎで逆に貧しい生活をしているんじゃないかと思わされるものよ![]()
読書の比率
先日の雨トークの読書芸人の回は面白かったけど、その実態がほぼ小説好き芸人であることにはやはり改めて驚かされた。昔から読書あるいは蔵書全体における小説またはフィクションの比率が、人それぞれであることにかなり興味があったのだ。ちなみにマンガはフィクションに含めてよいだろう。
高校の通学電車内で発見したのは、車中読書の文庫と新書の割合が男では半々くらいであるのに対し、女では文庫がほぼすべてだったということだった。当時は今よりも文庫=フィクション/新書=ノンフィクションという図式が明確だったように思うけど、やはり一般に、女のフィクション率は男より高いと見ていいだろう。ちなみに哲学科時代の下記の友人のフィクション率は2%程度だったし、そういう男は周囲に結構沢山いたものだ。自分は30%くらいだったが、年々減ってきて今は5%以下かもしれない。学生時代に文学作品中心の読書家だった立花隆は、編集者になってからノンフィクション専門に劇的に変わったということをよく語っているけど、案外それは男の一般的傾向の典型例なのかもしれない。
ピース又吉のような小説だらけの書棚と、音楽芸術人文思想系ノンフィクションが中心の自分の書棚を見比べればまったく別人種のようで、逆に小説愛好家の思考や生態にとても興味がわいてくる。もっとも最近の自分は読書欲自体が減少してきているようで、今ある本を整理しまくって、フィクションでもノンフィクションでもない系統の本~楽譜や詩集や写真集や地図など~の割合を大幅に増やしていきたいという気持が高まってきてるみたいだ。変なの![]()
プロデュースは危ないよ
ココアを飲んでいたら、学生時代に友人のソロアルバムを制作したことを思い出した。彼はバンド活動や作曲をしていたわけではないが、各種ギターを弾くのが好きで歌もよく歌っていた。オレは彼の人柄だけでなくその音楽的風味も好きだったので、喜んで企画制作したものだ。共通の知人に配っただけの私家盤だったけど、良い記念くらいにはなったと思う。しかし今それを自分が楽しく聴き返せるかといえば、そうともいえない。そのときの自分のやり方がどうしても気に入らないのだ。
内容は彼が好んで弾いたり歌ったりしてた曲のカバー、新たに作ったオリジナル、それにさまざまな即興演奏など。プロデューサ気取りの自分の青写真によって、わずか1日の録音セッションで彼の声と演奏、それに即興セッションを録り、その後数日のポストプロダクションを独りで一気に完成させた。まあ結局は個人宅録に彼という素材を単に絡めたという感じ。まるでリミクスネタの供給者のような扱いだった。録りの日に仮伴奏トラックだけを頼りに歌った彼には、全体像はほとんど見えていなかっただろう。そういう制作のやり方が、今思い出して非常に悔やまれるところだ。二人でその場で即興合奏した曲と伴奏制作者に徹した曲以外に関しては後悔がある。
歌手や共演者を素材扱いしてはいけないんだよな。考えてみれば1人で全体を統治する立場に自分を置くって魅力的かつかなり危険なことなんだと思うけど、宅録とかDTMって結局それなんだよね。その辺のことを考えすぎて、素直にハマっていけない自分が今日も寒がってます![]()
