1966年9月8日 東映
作曲家遠藤実自伝「太陽が笑っている」より
作曲家の夢を抱いて新潟の田舎町をあとに上京した進藤孝は、作曲家志望だった演歌師増田健吉と組んで盛り場を流し歩いていた。彼等にもファンがいた。バー「アカシヤ」のマダムや、大衆食堂「ふじや」の高村光枝もその一人であった。光枝は家出してきた当初危ない所を健吉に助けられた恩義があってか、彼が好きであった。しかし孝が光枝とお互いの公休日に遊びに出たことがあってから、失望した健吉は下宿から姿を消してしまった。孝は自分の歌を「アカシヤ」で聞いた実業家山中によってレコード会社へ紹介されたが、専属作曲家天田は冷酷に彼を扱った。落胆した孝は、優しく慰めてくれる光枝の心情にうたれ、結婚を申し込みふたりだけの結婚式を挙げた。ある日、孝の妹さかえが婚約者川合と上京してきた。孝は川合に作曲家牧村に紹介しようと言われたが頑固に拒否した。光枝が孝を思うあまり、内証で「からたち日記」を持ちこんだ。それは牧村を感動させ、孝はコロムビアレコードに採用された。孝の曲はヒットしたにもかかわらず、天田の横槍にあい、会社をクビになった。傷心の孝は田舎へ帰ったが、川合に激励され再び上京した。彼を待っていたのは、光枝ばかりでなく、弟子入り志願の舟木一夫であった。孝は舟木に己れを賭けた。「高校三年生」はその年のレコード大賞新人賞の栄冠をかち得た。孝の新しいスタートがきられ、こまどり姉妹、北原鎌二らの若い歌手が次々に誕生していった。その間、孝は流し仲間の健吉が喧嘩で刺され死んだという悲報に接した。そんな時、山中が新しい会社の設立の話を孝にもってきた。孝はコロムビアに恩義を感じたけれども、夢の大きい彼は、新レコード会社ミノルフォンへ走った。遅ればせながら山中の胆いりで孝と光枝の結婚披露宴が開かれ、彼の曲「妻に捧げる歌」の大コーラスは会場を感動の渦にまきこんだ。