3月11日午後12時17分
カミサンが息を引き取りました。享年70歳
3日前から、容態の悪化を看護士さんから告げられていて、一人で面倒をみる事が辛くなり、娘に泊まり込みで来て貰い、毎日容態を見続けてきました。寝ている時間が多くなり、肩で息をするような状態で、無理には薬を飲ませず、定期的に入れていた座薬も中止します。
口中の痛みも増し、本人自ら吸引機を希望し、口の中の痰を看護士さんに教わりながら吸引を行いますが、徐々に自分で痰を出すことも出来なくなりました。
意識のある内に、看護士さんから本人への覚悟を聞きます。私たちには、その日が近い事を告げられました。夜中は、ベッドの横に布団を敷いて寝ます。
苦しい寝息が聞こえれば安心、何も聞こえなければ、これまた心配で目を覚まして確認するような容態が続きます。
3月11日は、訪問看護と、クリニックの訪問医療の日でした。
その日まで頑張ろうと本人も思っていたのでしょう。連日来てくれる看護士さんからは導尿や、廃液の処理をして貰っていますが、それは治療ではなく、少しでも身体が楽になる様な処置です。11日は朝から、耐えられないように、訪問看護が早く来るようにと、救急車を呼んで欲しいと再三訴えます。流石に体が硬直するような緊張感が私の中で起こってきます。
最後の頼みの綱である、「お守り」と言われて渡された薬を使い、気持ちを落ち着かせるパッチを貼ります。いわゆる麻薬です。
11時、看護士さんが到着。出来る限りの治療を済ませ、新しい点滴のチューブの交換も手伝っていました。容態は更に悪くなり、息子に連絡するも、近くなのになかなか来ません。
家族が全員集まった中で、それを確認するように息を引き取りました。
1時間ほどでクリニックの先生が到着し、死亡の確認を行います。
その後、一旦帰った看護士さんが来てくれて、娘と二人でエンゼルケア。最後は、化粧を一切しないカミサンですが、娘の手で顔を整えていきました。
皆様には、いろいろご心配して頂きましたが、家族葬が済むまでは内密にしたいという、カミサンと私の要望で、殆どどなたにも連絡をしない事にしていましたが、昨日、火葬を済ませ、小さくなってカミサンが我が家に帰ってきました。
火葬場の混雑もあり、最短で昨日になってしまった事でしたが、約5日間の間、我が家でカミサンと二人で過ごす事ができました。
思えば、一昨年の5月に発病し、東京医科歯科大学へ、二人で癌の有無を検査に行ったのが、最後の遠出でした。医科歯科大の食堂で、検査を待ちながら、一人で空を見上げ、遠くのスカイツリーをぼんやり見ていたのを思い出します。
検査の結果が出た武蔵野赤十字病院の主治医からは、余命3カ月から半年。手術による治療は不可能と告げられます。それからと言うもの、毎月のように入院し、胆管へのステント手術を繰り返し、昨年秋からは、腹からドレーンで廃液を外に出すようになり、意外と元気で過ごしていました。今年に入り、いよいよホスピスへの転院を勧められました。
ガンの痛みは強烈だと聞いていましたから、一旦は痛みの軽減を優先に考えて、ホスピス行きを決めましたが、直後に、在宅でのケア、看取りに変更する覚悟をします。
自宅での看取りも大変である事は承知していましたが、私の覚悟さえあれば出来る事と、その期間に孫の偉知や、生まれたばかりの孫の月奈、そして息子や娘と一緒に少しでも居られる事が幸せだと感じたからです。
これは正直、カミサンも嬉しかったようですし、私としても49年間の結婚生活で、一番の恩返しとも考える事が出来ました。夫婦として、必ずしも仲が良かった訳ではありませんが、私の心情も最後には判って貰えたのではないかと思っています。
昨夜は、我が家で家族だけで精進落としをしました。
仕事があるというのに、息子家族、娘家族は、夜中の2時過ぎまで飲んでいたようです。つい先ほど終わったようで帰って行きました。家族の絆が深まったのであれば、それも又良い事なのでしょう。
早くから覚悟を決めていましたから、不思議な事に余り哀しみは浮かんできません。
ただ、これから完全に一人の生活になり、思い出すたびに寂しさや悲しさが深まって来るかもしれません。少し、私自身の体を休める事が出来た先には、さすらいの旅にでも出ようかとも考えています。
皆様には、ご心配をかけ、沢山の応援コメントも戴き、本当に感謝しております。
ありがとうございました。