鯉口を切る。と言う言葉がある。
鯉口と言うのは、日本刀の鞘の口の部分で、刀身と鍔の間に有るのがハバキ。
鞘から抜け落ちないように付いているのがハバキで、鯉口を切る。と言うのは、刀を抜く前に、鞘を持って指で、鍔を押して、すぐに刀身を抜けるようにしておくことだ。
初めて日本刀に触れたのは小学校5年生の頃。
父の使っていた(居合道)刀を抜く。刀の手入れもその時から教わっていて、その刀を使って、小学校卒業の時に、父から教わった剣舞「川中島」を、卒業慰労会で舞った。
ただこれは、目立ちたがりの父が、詩吟を吟じたかったからだろうと、後に思うのだった。
中学に入り、剣道を行うかたわら、さすらいも居合道を始める。
剣道の稽古が始まる前の道場で、父と他の先生たちに交じって居合道の稽古を始める。その後、
私の背の丈に合う日本刀を父から手渡される。二尺七寸と言う長い日本刀で、今のように、居合の為に作られた居合刀や模造刀とは違い、登録証のいる本物の日本刀である。
父が通い始めた文京区本郷の研修館に通い始める。
研修館のある建物は、相撲部屋の木瀬部屋であり、母屋は桂川と言う旅館だった。
建物の一階には土俵があり、二階三階が力士の部屋で、四階が居合道場となっている。
中学1年のさすらいは、登録証と刀、そして稽古着を携えて道場に通う。先生は館長の檀崎質郎範士九段で、その他にも範士の先生方が多数来られている。
檀崎館長は、元桂川と言う力士で、双葉山時代に幕内で活躍する力士で、その後に木瀬部屋を継承して相撲部屋の親方でもあった。
中学一年の時に居合道の昇段試験を受けて、初段に合格。中学三年の時は参段になっていた。
中学生が居合道をするのが珍しい時代で、東京オリンピックの武道館でのデモンストレーションの出場の話もあったが、実際は父がその栄誉を受けて武道館での居合を披露した。
中学三年になると、木瀬部屋の力士よりも背が高くなり、檀崎館長から「相撲に来い」と言われたのをきっかけに、研修館の道場に通う事が無くなった(笑)
その後木瀬部屋は、娘婿の清の盛さんが継いだが、清の盛さんとは一緒に昇段試験を受けに行ったもので、その時に、作家の三島由紀夫氏も昇段試験を受けに来ていた。
水道橋や本郷は、さすらいにとって懐かしい場所で、勿論子供だから後楽園遊園地が一番の楽しみであり、同じく水道橋にある、宝生能楽堂は、祖父が演じる事もあり、母と良く見に行ったものだ。母は、同じ文京区の誠之小学校から、その能楽堂の坂の上にある桜陰の卒業生でもある。
母の誠之小学校の同級生が、俳優の金子信雄さんと藤間紫さんだったと聞く。
本題まで、かなり遠まわりしてしまった(笑)
書きたかったのは鯉口を切られた。という話で、いよいよ切羽詰まった所に来てしまった。
ガタン!大きな音がして飛んで行ったら、簡易トイレの前で倒れているカミサン。手も足も力が入らないから、ベッドに戻れなくなり転んだのだ。一番心配していた事だったが、特に手足に負傷は無かった。ただ持ち上げられない。重いのではなく、身体を支えると、そこが痛くてどうにもならない。
今日は医療チーム全員集合。
通常の作業だけでなく、点滴のチューブの交換、廃液のチューブの洗浄を覚えなければならない。今日一日ほぼカミサンに付きっ切り。有能な看護士さんに当たったから、これはラッキー。
風呂に入りたいというので、訪問介護の風呂介助を頼む。明日来てくれる事になり、カミサン嬉しそう。
夕食は、息子が孫の月奈を連れてきながら、カミサンお食事を作り、お相手をしてくれるので休む事が出来た。一昨日は夜中に呼び出され「誰か来たよ」と言われるが、朝の3時半、誰が来る訳もなく、夢の話だったのか、そんなこんなで寝不足もある。
日に日い状況が悪くなる。ガンバレ!さすらい!