昭和の時代 自転車三角乗り | 武蔵野舟木組 2024

武蔵野舟木組 2024

               さすらい

 

私が生まれたのは昭和24年2月戦後ッ子であり、団塊の世代と呼ばれる一人だ。

 

戦後ッ子と言われても、戦争を知らないから、そう呼ばれてもそんな意識は全くない。団塊の世代と言われても、この名前が言われるようになったのは、昭和51年に、堺屋太一が『団塊の世代』と言う小説を書いてからで、その後「団塊の世代」という言葉浸透して、「あぁ自分は団塊の世代の一人なんだ」とと思うようになった。

 

単純にベビーブームの一人だとの意識はあったが、東京生まれでも、都下の三多摩の呼ばれる地域で生まれ育ったし、周りにそれ程子供が多いとは思っていなかった。マンモス団地が家の周りに出来、一気に環境が変わった。子供も増え、2クラスが3クラスになり、1クラスの人数が一気に増えたが、ベビーブームで、一気に子供が増えたと言う意識は持たなかった。

 

そんな子供時代。自転車は便利な乗り物だが、子供用の自転車を持っているのは、一部の子供達で、普通自転車も、一家に一台は、有るかないかだった。そんな子供たちが乗る自転車は、大人用自転車で、今の自転車の様に、サドルの高さを自由にならないから、サドルが高すぎて子供では乗れない。そこで生まれたのが「三角乗り」だ。

 

自転車の三角の部分に、足を入れて、器用に乗る。経験した人も多いだろう。当然長く乗っている事は出来ないし、現代では、車も多く危険な乗り方である。それでも、こうして乗れるようになった時は嬉しかった。

 

まだ舗装の道も少なく、路地を入ると土道だったり、公道も砂利道が多く、雨が降ると、いたる所に水溜まりが出来たものだ。

 

我が家の自転車は、母が使う女性用の自転車だった。三角形ではなく、U字になっているから、スカートでも乗れる。前カゴなどなく、夜は四角い単1電池の入った、懐中電灯を取り付けた。

今考えると、全くライトの役割はしていなかったと思う。

 

時代は変わるもので、自転車は貴重品だったから、大事にしたが、今では平気で放置したままにして、乗れなければ捨ててしまうが、当時は、自転車屋にいろいろ修理にも出したものだった。

 

傘にしても同じことが言える。傘も壊れると修理に出した。骨接ぎをして大事に使ったが、今では安価なビニール傘があるから、我が家などは、傘入れに入らないぐらい、傘がギューギューに入ってるし、物置にも何本も使わない傘が有ったりする。困ったものだ。