舟木一夫自叙伝③ 忘れられないあの日 第一章 | 武蔵野舟木組 2024

武蔵野舟木組 2024

               さすらい

 

木曽川べりのハーモニカ  高校一年生

 

それから二、三日して、この事が父の耳に入ったのだった。「成幸、私は、お前を芸人にするために、学校にやってるんじゃないぞ」父のカミナリは大きかった。父はPR映画製作をやる前は映画館を経営していた関係もあって、苦労の多い芸能界の事は熟知していた。それだけに、泥水を洗うような苦しみを我が子に味あわせたくなかったのだろう。僕は父が反対する気持ちは判っていたが、先生にも自分にもはっきりと、「歌手になります」と誓っているのだ。僕は父に叱られても歌手志望を諦める気にはならなかった。だが悲しい。父を怒らせたことも悲しかったし、歌手になるなんて絶対に許さないと言われた言葉も悲しかった。僕はその心の痛手をいやすために、いま木曽川の土手に一人で自転車をこいでいき、思いっきり歌って見たのだが、やはり心は晴れず、不覚にも涙は頬を濡らし、傷心は深まるばかりだった。

「おい上田」いつの間に来たのか、北原先生が背後に立っておられた。

「君の歌を、生で聞いてみたいと思ってね。そっと来てみたんだ。だが来てよかったよ。勉強しろ、きっとものになるよ」

「そうですか。先生有難うございます」

北原先生の一言で、僕の傷心は吹っ飛んだ。そして決心した。父には無断で勉強しよう。そして立派な歌手になった時、父に許しを乞えばいいのだと・・・。

 

僕は暇があると北原先生を訪ね、歌のレッスンをして貰った。

やがて中学を卒業すると、僕は名古屋市にある愛知学園高校へ進学した。その時北原先生は、「上田、名古屋には私の友人の山田昌宏君と言う声楽家がいる。紹介状を書いてやるから、これからは山田君にみっちり声楽の基礎を習うと良い」と紹介状を書いてくださった。

僕は自宅から電車通学していたが、暇をつくっては山田先生の所に通った。山田先生はクラシックの方だったが、レッスンは厳しかった。「将来歌謡曲をやるにしても、土台をしっかり築いておかなければ、立派な歌手になれない」発声法からやり直しである。

 

山田先生

 

僕はイライラしてきた。早く自分の実力を試してみたくて仕方ない。と、そのチャンスが早くもやって来た。CBC(東海テレビ)「歌のチャンピオン」だ。僕は先生にも両親にも無断で応募すると、その日が来るのをそわそわしながら待ち続けたのだった。