神学最前線 | 音を見つめる日々…

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第九の練習のあと、場所をお借りしている牧師夫婦宅

(練習場所である礼拝堂の上が牧師館)にお邪魔して

おしゃべりした。

実は牧師夫人は音大声楽科出身で、以前同じ教会だ

った。牧師のご両親も同じ教会員。

旧知の仲なわけです。


話の中で、神学は日々進化しているという話が出た。

進化?

全くピンと来ない。

聖書には、私の言葉は永遠に変わることはないと書い

てあるから。

すると牧師は、聖書の言語から忠実に訳されたという

十戒を見せてくれた。

ご存知、これまでのモーセの十戒とは以下のものだ。

  1. 私以外の何者も神としてはならない。
  2. 偶像を拝んではならない。
  3. 主の名をみだりに唱えてはならない。
  4. 週に一度は休日としなさい。
  5. 父母を敬いなさい。
  6. 何をも殺してはならない。
  7. 姦淫してはならない。
  8. 盗みを働いてはならない。
  9. 隣人のことを偽証してはならない。
  10. 他人の物を欲しがってはならない。

今までは威厳のある神が、人間に対して禁止した戒め

だと思っていた。

でも、見せてもらった訳は、今までのものとだいぶ意味

合いが違っていた。


例えば1の「私以外の何者も神としてはならない」は、

「あなたは私以外の者を神としない」 となっていた。

「偶像を拝んではならない」は「あなたは偶像を拝まない」、

「父母を敬いなさい」は「あなたは父母を敬う」、

「他人の物を欲しがってはならない」も「あなたは他人の

物を欲しがらない」

なのだ!!


この訳で読むと、「あなた方は神である私のことを知って

いれば、きっとこうするはずである」という、神の我々に対

する信頼のようにも聞こえてくる。

これだと、「私はあなた方を愛す」という聖書(神)からの

メッセージと繋がり、納得がいく。


あと、この世には神の力は及んでいないという説には

度肝を抜かされた。

では神に向かって祈っても無駄ということ?

彼は言う。

東日本大震災で津波が東北を襲ったのも神の意思では

ない。あれは自然現象であると。

え??全ての現象は神の意志であり、神の御心が宿って

のことだと習って来たけど違うのか?

昔、どうして神様がいるのに災害で人が沢山死ぬのでし

ょう?神は助けてくださらないのか?と聞いたことがある。

その時の牧師は、「神は、与えてくださる神様だから、奪う

権利も持っていらっしゃると思います。神の前に私たちは

無力です。祈りましょう」と言った。

旧約でのヨブ記には、裕福で家族にも恵まれたヨブが、

全ての財産と家族とを失い、ひどい皮膚病にも犯され苦し

むが、決して神を恨むことはなかったと記録されている。

それどころかヨブは、「わたしたちは、神から幸福をいただ

いたのだから、不幸もいただこうではないか」と言ったの

だった。

なんという強い信頼と揺るがない信仰心。。。


だが今夜の彼は違う。

「神に奪う権利はありません。」


この世は、神の国の中で唯一、神の力の及ばないところ

なんだそうだ。

及ばないというよりは、神が思い通りにしない世というこ

とか?

神が人の形の土に息を吹きかけて命を与えられたとき、

人間には神の霊が宿った。

その神の霊は全ての人が持っており、その霊は大切に

されるべきものなのだという。

人を差別したり侮辱したり、また殺したり、自ら命を絶つ

行為は神の霊を粗末にすることだそうだ。

しかしそのどちらも、人には選択の自由が与えられている。

神を拝む自由と、神に背く自由である。。。

彼は言うのだ。

神の力が働く世の中だったら、みんなクリスチャンになっ

ているはずと。


選択の自由は、われわれ人間に対してそれなりの信頼が

ないと決して与えないと思う。

また、選択を託される我々にとっては、ある意味厳しい。


こうして考えていくと、進化というのは、変わっていくことでは

なく、真理に近づいていっているということなのかもしれない。

30年前に聞いた説教は、今では同じ内容がリニューアル

されて表現されて語られているということか?


短いおしゃべりの時間だったから、もしかしたら間違って

理解しちゃってるところもあるかもしれないが、神学は日々

研究されているんだということがよくわかった。

牧師さんたちも、常に勉強していなければ昔の古いままの

説教になってしまうわけだ。大変だな。

これはどの世界でも同じことか。音楽でもね。


帰り際に面白いよ~と1冊、本を貸してもらった。

山浦玄嗣著の「ナツェラットの男」

ナツェラットはナザレのヘブライ語だ。

ナザレの男とはイエスキリストのこと。

ユダはイエスを裏切っておらず、復活のイエスと出会って

展開していく原始キリスト教を裏側から支えたという。

ビックリな解釈!

聖書に出てくる登場人物が様々な語り手を通して生き生き

と描かれているらしい。


読んでみよう。