赴任するまでの約3ヶ月間、東京本部にてディーラー養成研修を修了した直後にニューヨーク支店転勤の内示をもら い、ビザ取得手続き等慌しい日々を送りながら、東京本部内のディーリングルームの中の独特のムードを傍観者的に味わっていました。
私自身は、スペイン語、 ポルトガル語が得意で、中南米の仕事をする前の数か月間、「お客様」としてニューヨーク支店内で研修するかもしれない程度の中途半端な心構えですから、ま さか本当にこのディーリングの世界に入るとは自分では想像出来ませんでした。
ところで、前々稿でもご紹介した通り、当時のニューヨーク支店 のチーフディーラー氏は、銀行内はもとより市場でも名うてのディーラーであり、且つ厳しい指導でも有名な方でした。私のようにたった数か月で即席に養成さ れた新米ディーラーなどはすぐに首になるだろうと思っていたのです。
事実、私の渡米のタイミングと同時に東京本部の国際資金為替部長が ニューヨーク支店での会議に出席、その会議が始まるや否や、チーフディーラー氏は、本部から会議出席の為に出張して来た部長に向かって「即戦力とならない ディーラーなど必要ない」と言い放ったのです。
まるで、赴任したきたばかりの私への当てこすり以外の何物でもない、これはとんでもないところに来てしまっ た、と思っても後の祭りでした。このような出だしで、精々「余命6ヶ月のディーラー」人生が始まったわけです。
配属されて最初の3ヶ月は 当時のドル円ディーラーのアシスタントをすることでした。理論面の研修は受けたものの、東京本部でまともにディーリングルームのプロパーの要員として下積 みを経験したわけではなかったので、要領が掴めない上、やたら短縮の多い英語が聞き取れませんでした。私は英検1級を持っており、英語には多少自信が あったものの、当初1ヶ月ほどは毎日耳鳴りがしていたのを覚えています。
為替ブローカーが一日中伝えてくるプライスが耳に残ってしまっ て、ルームを出た後も、町中で聞こえてくる英語が全てプライスに聞こえたものです。当時は今のような電子ブローキングは未だ存在せず、全て人間がボイス ボックス経由で市場のプライスを読み上げるという、所謂「人間ブローカー」というものでした。
あれやこれやと悪戦苦闘しているうちに、翌 85年の3月終りになってドルマルクを担当していた先輩ディーラーが係替えとなり、何と私がドルマルク(今で言う「ユーロドル」のこと)ディーラーの席に座ることになったのです。どちらに せよ、あと残り3ヶ月程度の運命、ニューヨーク支店での良き思い出になるだろうと思って観念しました。
そして、先輩から、当時のドルマルクディーラーで儲かった人はかつていないというのを直後に知らされ、益々戦々恐々としましたが、もはや後には戻れません。こうして、「修羅場」とも思えた私のディーラー人生が始まったのでした。
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