井伏鱒二(1898~1993)の個人全集について、ほんの少し、書き留めておきます。全部で三種あります。

 A 筑摩書房版 井伏鱒二全集(1964・9・23)第一巻発行。全一二巻で完結したが、増補版を加える。
                 増補版(1974・3・20)第一巻発行
                 全一四巻完結(1975・7・28)
 B 新潮社版  井伏鱒二自選全集(1985・10・10)第一巻発行。全一二巻で一応完結、補巻として、二巻を加える。
                 全一四巻完結(1986・10・20)完結。
 
 C 筑摩書房版 井伏鱒二全集(2000・3・30)第一巻発行。全二八巻。別巻二を加える。
 この全集について筑摩書房は次のように書いている。
 
 発表された全作品を収録。過去の全集は著者の意志で半分以上が割愛されてきたため、実質的に初の全集。作品の配列は発表順とし、底本は初収録の刊本を用い、井伏文学の形成過程をたどる。装画=井伏鱒二自筆作品。
 
 知り合いの古書店主が、「8Pの三段組みの旧かなの本を、今時誰が購入して読みますか」と言ったのを聞いて、なるほどと思った次第ですが、この三種の「全集」を比べ、そのどれにも含まれている『黒い雨』について、その「仮名遣い」を見ておきます。
 最初の二文のみを書き留めます。(漢字は新漢字に統一しています)
A・B 
 この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云ひ知れぬ負担を感じなければならないやうな気持であった。
C 
 この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないような気持であった。
 
 これでわかるように、A・Bは「旧かな」で、Cは「新かな」です。
 
 ふくやま文学館で調べると、この「黒い雨」の原稿は「旧かな」。それを受けて「雑誌」では「旧かな」。続いて「単行本」では「新かな」になっているようです。
 
 Cの編集者に聞くと、「高校生にも読んでもらえるように」ということで、「新かな」を採用したとか。
 
 本に「読む本」と、「調べる本」とがあるならば、(当然、こんなにはっきり分かれるはずはありませんが)前者は「文庫本・新書本・単行本など」、後者は「全集・個人全集など」と、私は勝手に理解しています。
 
 とすると、この井伏鱒二死後の全集「C」の「黒い雨」に限ってでしょうが、「新かな」の採用は納得できないと思っています。
 
 【追記】筑摩書房版『現代日本文學大系65』「井伏鱒二・上林 暁」では、「黒い雨」のみならず、「山椒魚」も「さざなみ軍記」も、みな「新かな」で表記されていました。これには驚きました。
 因みに、この本の発行日は、一九七三(昭和四八)年九月五日(勿論、井伏、生前の『全集』)です。