昨日のブログについて、今朝、まだ続きがありました。

 話題になったのは、唱歌「野なかの薔薇」の三番の歌詞です。

 「読んで楽しい 日本の唱歌」という本で、中村幸弘先生が解説されているので紹介しておきます。

 

 ーここより引用ー「日本の唱歌」Ⅰ286頁より

 Ⅲ 童は折りぬ、野なかの薔薇。

   折られてあわれ、清らの色香、

   永久にあせぬ。紅のおう、野なかの薔薇。

 (中略)

 たいへん悩まされるのは、「永久にあせぬ」の「あせぬ」です。折られてしまったのですから、〈褪せない〉ことにはならないでしょう。〈色褪せてしまった〉です。「ぬ」は、「折りぬ」の「ぬ」と同じく、完了の助動詞です。打消ではありません。それは、この「あせぬ」に先行する「あはれ」の存在から見ても、やはり、〈色褪せてしまった〉と解釈しなければならないところと思います。

 ただ、その「あせぬ」を、「永久にあせぬ」というように、「永久に」とあるところから、〈永久に褪せない〉というように受けとめていた人が、けっこう多かったのではないか、と思えてなりません。手折られて枯れてしまっても、その印象は強く心に染み着いて消えないというように理解されてもくるからです。そうなると、「ぬ」は打消の助動詞ということになります。「ぬ」のしたにある「句点(。)は、ここでは、大きな意味のあるもの、ということになりましょう。

 近藤朔風という訳詩家は、東京外国語学校で、独・英・伊語を学んだ人だそうです。名訳詩家です。ただ、この、「永久にあせぬ」だけは、ちょっと誤解を生ませる恐れのある翻訳でした。あるいは、その誤解がうまれることを期待して、そういう思いも、併せて伝えたかったのでしょうか。

 ーここまで引用ー

 

 この「永久にあせぬ」の次に句点(。)を打ったのは、筆者(中村幸弘先生)です。こうすると、間違いなく、この「ぬ」は完了になりますが、この解説の書きっぷりは、いささか、問題がありそうです。

 

 やはり、これも「無理題」でしょうか。日本語は難しいというのが老人二人の感想でした。

 

 昨日の投書、「腑に落ちない自民の資金提供」と書けばいいのにというのがつまらない結論でした。