全五十六巻より、増巻全九十七巻の新聞広告は、昭和三十一年三月六日に出ました。そして、そこに、「“現代日本文學全集”増巻にあたって」という文とともに、「第七次予約募集 三月五日~四月二十日」という文字が躍っていました。

 

 別な言い方をすれば、この時までに既に第六次までの予約購読者がいたということです。それは、この前に書いた、基本資料の一つ、『筑摩書房の三十年』和田芳恵が書いていたことですが、一回の配本部数が十一万部を超えた『井伏鱒二集』を頂点に、膨大な数の「全五十六巻」期待者がいたということです。この連中が、当然、反発したり、抗議したということでしたが、筑摩書房側もちゃんと反論を用意していました。

 

 ここからは、私のこの「ミステリー」の答えです。

 

 ① この時、同時に示された「堂々97巻の全容」で、「太字は既刊、▼は増巻のもの」とありましたが、「50巻」のうち、太字でないものは、二冊、「第1巻の坪内逍遙・二葉亭四迷集」と「第4巻の北村透谷・樋口一葉集」だけでした。ただ、これは、「今、予約を打ち切ると、この二冊は手に入りませんよ」というサインではないでしょうか。

 ② 「第四十八回配本 第七次第一回 四月二十日 谷崎潤一郎集(二) 細雪・少将滋幹の母・陰翳禮讃」という「今からでも揃えられます」という文字も見えますが、この谷崎潤一郎集(二)と続けての夏目漱石集(二)は、それぞれ、既刊の谷崎純一郎集・夏目漱石集より大きな魅力を持っていたことは間違いありません。これから、もっといいものを出しますよという言い分だったはずです。

 

 そしてその通りずっと遅れて、第一巻の「坪内逍遙・二葉亭四迷集」を第54回配本(昭和31年8月25日)し、第4巻の「北村透谷・樋口一葉集」は第57回配本(昭和31年10月25日)になったのです。

 

 この「北村透谷・樋口一葉集」が出るまでに、複数巻に選ばれたのは、「谷崎潤一郎」・「夏目漱石」・「森鷗外」の3名でした。

 

 こうして、予約数を減らすことなく、全97巻の『現日』は、昭和33年9月5日の最終巻「文学的回想集」まで配本されたわけです。

 

 最初の「嶋崎藤村集」の配本が、昭和28年8月25日、最終「文学的回想集」の配本が、昭和33年9月5日。実に5年を上回る年月によって完成した全集でした。そして、その「配本順一覧」による「配本日」を眺めると、一ヶ月以上配本しなかったのは、第一回配本「島崎藤村集」から第二回配本「芥川龍之介集」の間の昭和28年9月がないだけ、他のすべての月に、一冊乃至は二冊配本されていました。改めて、驚き入った次第です。