山田俊雄さんの、『詞林間話』をパラパラとめくっていて「思い出すこと」という短話に巡り会いました。

 

 ーここから引用ー『詞林間話』ー「思い出すこと」ー288頁より

 森鷗外の臨終に立ち会った濱野知三郎が、その前日私を産したばかりの、私の母を、産褥に訪れて、鷗外の終焉の模様を伝えるとともに、鷗外が私の父に遺託したといわれることを、どんな風に語ったものか、野田さんは、私に、私の母からの証言を得て、何か書いてくれまいか、ということを、二度ほどそそのかす体(てい)に私に持ちかけたことがあった。(中略)野田さんは二度の勧誘の不成功の後、また、も一つの提案をしたことがある。(中略)

 鷗外の死の床の模様を、私の生まれた直後に濱野穆軒から伝えられた私の母は、そのことについては、

 「そのことは覚えとるけど、濱野さんが、長々とおしゃべりするのを、早くお帰りになって下さらんかしらと思って、何にも中味は覚えとらんがや。あんたを産んで、くたびれて、眠とうてならなんだのよ」

という、案外に本当らしいが、何の取りえもないことだった。その母も今は亡いのだが、・・・(以下略)

 ーここまで引用ー

 

 話を全部、伝えきれないのが残念ですが、私は、この部分にぶっつかって動転してしまいました。

 一つは、山田俊雄さんが、森鷗外の死の前日に生まれたこと。そして、濱野知三郎(穆軒)が、森鷗外の臨終に立ち会ったことでした。

 

 生まれが一日違いなどというのは偶然、普通の場合何の意味もないのですが、私の場合、少し、意味があります。何しろ、「山田俊雄」は山田一族のうちの特別な存在だから。

 

 そして、こちらの方がはるかに重要ですが、森鷗外の臨終に立ち会った「濱野知三郎(穆軒)」こそ、私の母校ー福山誠之館ーの卒業生であり、「伊澤蘭軒」で、かの福田禄太郎より多く、そして、森鷗外に福田禄太郎を紹介した人物だったのです。

 

 私は、早速、「井伏鱒二研究」の研究・権威者である、前田貞昭先生に電話し、濱野穆軒のことを訊ねました。勿論、きちっと答えてくださいました。感謝しています。

 

 井伏鱒二は、中学生時代の「森鷗外に詫びる件」から一生逃れることが出来ず、そのもっとも大きな理由として、「福田禄太郎」先生の存在があったと私は思っていました。実は、森鷗外にとって、あるいは、その森鷗外と福田禄太郎をつなぐ人として、先輩「穆軒濱野知三郎」がいたということに、井伏鱒二は思いいたらなかったのではないかということに今、関心が移っています。

 

 そして、森鷗外と井伏鱒二、福田禄太郎(井伏の先生)と濱野穆軒。鷗外の研究者である山崎一頴先生、あるいは前田貞昭先生など、一堂に会して話を聞けたら面白いだろうなと勝手に考えて面白がっています。