井伏鱒二のことをつついていると、次のような文章が気になります。多少長いが読んでください。

ーここから引用ー

 随筆といふものは在りのままに書かなければいけないのだらうか。しかし在りのままに書いたつもりでも、結果から見ると形骸だけしか書けてゐない場合が多いので、創作とは別の意味で虚構の不図した効果をあてにして、写生本位から離れた行きかたをしてもいいのではないだらうか。他人の印象記など書いたりする場合には、虚構による効果をねらふと、取り扱はれた当人が気を悪くするだらう。だから私は他人のことについて書くときは仕上げの可否は別問題にして在りのままに書くのを常としてゐるが、自分自身のことを書くときには多少の虚構を使ってゐる。たとへば急ぎの原稿を書いてゐるとき人が訪ねたことを書く場合に、本を読み終ったときその人が来たやうに書いたりする。

 最近この虚構といふことを私は気にしないが、十四五年前までは可なり気懸りになる疑問であった。そのころ東京日日新聞と大阪毎日新聞の共催で、十人あまりの作家を東海道方面の旅行に連れて行ったことがある。菊池寛氏をはじめ村松梢風、三上於莵吉、千葉亀造る、高田保といふやうな人たちで、私もそのなかの一人であった。この旅行は楽しかった。浜名湖の弁天島に一泊、豊橋に一泊、名古屋に一泊、それから木曽川くだりをした。

 名古屋から木曽川畔の駅まで可なりながい時間を電車に乗った。この電車には電車会社の好意による特別案内人が乗りこんで、沿道の風景や史実について詳細にわたって説明をしてくれた。この案内人はもと寄席芸人であったといふことで、酒席では幇間の代りをつとめたり踊をして見せたりして、電車に乗ると講釈師のやうに慣れた口上で説明するのであった。車中、私たちはその説明をききながら、窓外の風景を見てゐたが、菊池さんと村松さんは電車のなかに備へつけてあった将棋盤で対局して、電車が終点にとまってもまだ盤に向って勝負をつづけてゐた。ほかのものは電車をでてからも、二人の将棋が終るまで駅前の広場で遊んでゐた。

 二人の将棋さしは、そんなに夢中になって盤に向ってゐた。私の観察によると、ことに菊池さんは盤に向ったが最後、電車の走ってゐる間も窓外の景色に目をうつさなかった。小牧山を右手に見て走るとき、案内人が戦国末期の古戦場として軍談の一くさりを語ったが、菊池さんは身じろぎもしないで盤面に目を落してゐた。当時、菊池さんはオール読物に軍記物を連載し、ちゃうどその月の号には小牧山の合戦を書いてゐた。可なり評判の読物であった。私たちは小牧山の古戦場とその合戦記の作者を目前に見たわけだが、菊池さんは将棋に夢中になって小牧山などには何らの興味も持ってゐないかのやうであった。

 ところが木曽川くだりがすんでから、その日の宿で私たちは毎日新聞の依頼で当日の遊覧記をみんな二枚か三枚ぐらゐ書いた。その原稿は翌々日ごろの新聞に出た。菊池さんは小牧山のことについて書いてゐた。

 「自分は最近、小牧山の合戦段を書いたので、車中その古戦場を望見して、感激ふかいものがあった」といふいみのことを書いてゐた。私はちょっと意外に思ったが、なるほどこれいいのだといふやうな考へに自分の気持ちを片づけることが出来た。

 追記―後年になってきくと、菊池さんのその原稿は池島信平が代筆したのださうであった。

ーここまで引用ー

 

 私がこんな長い引用をしたのは、勿論井伏鱒二の随筆が「真」であるか「偽」であるかということを問題にしたいということが主ですが、もう一つ、この文章「十一月十五日記」は、菊池寛の生前に書かれ発表されたかどうかという点です。

 お読みの方いかがお考えでしょうか。