いつものように、老夫婦の楽しみで、BS日テレ 午後七時よりの「こころの歌」を視聴していました。

 

 フォレスタの数々の歌を楽しんでいたのですが、終わり頃、『毬藻の歌』というのが出てきて、「えっ、この歌よく知らないよね」などと話し合っていた時、歌が始まりました。

 

 水面をわたる風さみし

 阿寒の山の湖に

 浮かぶマリモよなに思う

 マリモよマリモ 緑のマリモ

 

 出だしの「水面」をどう歌ったかしかと確認できないまま、歌は終わりました。

 

 老妻も、自信なさそうに、「『みずも』って歌ったように聴いたけど」といいいます。

 

  そこで、ネットでこの「毬藻の歌」の歌詞を確認したところ、驚くことが書かれていました。以下引用いたします。

 

 ーここから引用ー

 一番の歌詞の【水面】は通常<みなも、すいめん>と読み、<みずも>とは読みません。特に<水面を渡る風=みなもをわたるかぜ>は成句に近いものとなっています。『広辞苑』参照。しかし、作詞者がそのようなことを知らないはずがなく、ルビを振ってでも<みずも>としたい意思が伺われます。造語の一種でしょうし、原作は尊重されねばなりません。同じようなことが寺山修二が作詞した五木ひろし歌の「浜昼顔」の<たとえばせとのあかとんぼ>にも起こりました。漢字にすると<例えば背戸の赤蜻蛉>となりますが、寺山は<背戸>を<せと>、と読ませようとルビを振ったため、歌だけ聴いた人は<例えば瀬戸の赤蜻蛉>と聞いてしまいました。美空ひばりはこの歌を歌うとき敢えて<せど>と歌っています。<背戸の赤蜻蛉>も成句に近いものとなっていますし<ど>が濁っているのを寺山が嫌ったのでしょう

 ーここまで引用ー

 

 フォレスタは、「みずも」と歌ったにちがいありません。そして、この歌では、作詞者の意向で、「みなも」でなく、「みずも」と歌うのが正しいということでしょうか。

 

 こんなこともあるんだということを含めて、これも「無理題に遊ぶ」話です。

 

 しかし、やはり、「水面」は「みなも」と読んで、歌ってほしいなと老人は考えるのですが。