この日曜日、葛原しげるの生誕祭に参加しました。そして、校歌作詞の面からの葛原しげるの人柄を講演しましたが、熱心な聞き手ばかりで本当に喜びました。改めて、葛原文化保存会の皆さんに敬意を表する次第ですが、その講演の中で触れ得なかったことについて、書いておきます。

 

 その前に、高等学校の古文文法の授業では、次のようなことを黒板に書きます。

 ○ 花咲か(  )。

 ○ 我行か(  )。

 空欄を「なむ」と「ばや」で埋めなさい。

 

 勿論答えは、花咲か(なむ)であり、われ行か(ばや)であって、この「なむ」を「他に誂え望む助詞=~シテホシイ」とし、「ばや」を「自己の希望を表す助詞=~シタイ」という風に説明します。

 

 ところが、誤って、この「なむ」を「自己の希望を表す」用法に使った例が、明治以後に現れます。次の引用はそれを示し、説明しています。

 

 ーここから引用ー

 「なむ」の誂えの意味は後のことばの中では理解しにくい語となった。現代になって近衛文麿(一八九一~一九四五)の「日の本の我は男の子ぞ日の本の男の子のつとめ今はたさなむ」(岡義武・近衛文麿)、山本五十六(一八八四~一九四三)の「大君の御楯とただに思ふ身は名をも命も惜しまずあらなむ」(阿川弘之・山本五十六)では、どちらの場合も「なむ」の付いた内容は自分の行動に関しており、本来ならば「ばや」を使ってしかるべき個所であった。このような誤りが生じた理由は、希望・願望という意味で「なむ」をとらえる感覚になったためで、他者の行動に関する希望という現代語でいえばいくつかの概念の複合した内容が「なむ」一語ではとらえにくくなったということである。」

 ーここまで引用ー(『日本語文法大辞典』568頁・山口明穂)

 

 ところが、明治の終わり頃の寮歌には、次のような例が頻発します。

 ○三度われらは叫ばなむ   揚げて帰れやかちどきを  (明治四十一年 一高寮歌 「としはや既に十八と」

 ○野辺の小川に花咲かば 若き血潮を誇らなん (大正二年 六高寮歌 「野辺の小川に花咲かば」)

 

 葛原しげるは、昭和六年の作詞で、「御国の幸をば 増さなむ我等」とします。

 

 ところが、その未定稿で、「御国の幸をば 増さ(な)む我等」を示します。

 

 私は、これを見た時、この「なむ」の誤用は、「自己の希望」と「他に対する誂え」の概念の混同(『日本語文法大辞典』の言うごとき)ではなく、「叫ばむ」「誇らむ」に横から「強めの語=『な』が加わったと考えるのが自然ではないだろうかと思ったわけです。いかがなものでしょうか。

 

 「葛原しげる校歌の作歌事情」を調べていて、こんなことをいくつも考えていました。

 

 もちろん、講演では、こんなことに触れませんでしたが。