この次の日曜日、「葛原しげるの校歌を語る会」で少し話をすることになって、その作曲者である藤井清水の書簡を読んでいたら、「母校に永久に残されるべき校歌のこととて一夜漬けの無責任な作曲など言語同断なことは出来ませず…」という節があって、その「言語同断」に「言語道断のことと思われる」という係の注がついていました。

 

 そこで、思い出したのが、この本ー『詞苑間歩』上でした。

 

 以下、少し長いけど、引用いたします。

 

 ーここから引用ー

 今、標題に「言語同断」と書いたが、恐らくこの文章を讀むに当つて、どんな人でも、これは誤りだと氣が付かれることと思はれる。「言語同断(ごんごどうだん)ではなく、「言語道断(ごんごどうだん)」でなければならないことを知ってゐて、標題に掲げたのは、ちょっと申したいことがあつての悪戯(いたづら)であると、御容赦を乞うて置く。

 大學の卒業予定學生の入社試験には、まだ少々日子がるけれども、入社試験の常識問題には、意外に古めかしい漢字の書取りとか、用語の解釋などが出るさうである。ことに、同音で紛れやすいものなど、十年一日の如く出題せられる由。このゴンゴドウダンもその一つであるやうだ。

 (中略)

 さて、さう思ひながら、いろいろの字引を見ると、近代のものでも、山田美妙の『新式節用辞典』(明治二十五年序)にも「言語同断(ゴンゴドウダン)が見える。久保天髄、大町桂月、大田淳軒共編の『新式いろは引節用辞典』(明治三十八年序)も同断である。別に、『日本大辞書』の「言語道断」の項に、「コレヲ誤ツテ言語同断ト書ク」と述べてゐるから、先の二つの字引の誤りも實は言語道断の沙汰といふべきではなくて、屢屢おこり勝ちなことと考へて恕べきものであらう。したがつて、現代の入社試験に臨む大學生がこんな語の書取りを誤ることなど、むしろあたりまへのやうにさへ思はれる。出題自体が言語道断とまでは言はないが。

 ーここまで引用ー

 

 (中略)の部分には、江戸時代の『節用集』の「同断」の用例がくわしく紹介されています。

 

 「無理題に遊ぶ」というテーマでこのブログを書いている者として、こんなに小気味よい、切れ味鋭い文章には滅多にお目にかかれません。まったく同感。

 

 ただ、この本、旧漢字、旧かなで書かれています。私はほとんど抵抗なく読めますが、若い国語教員にはどうでしょうか。しかし、これくらいの日本語の勉強は当然のことと老齢の教師は考えているということを付け加えておきます。(この本の一部をまとめた『詞林逍遙』角川書店版は、新漢字、新かなで書かれていますが)

 

 なお、「索引」は「下巻」にもあり、また、「続巻」にまとめて付いていて便利です。

 

【追記】 『明鏡国語辞典』は、「ごんごどうだん」【言語道断】として立項して、その〔注意〕として次のように書いています。

 〔注意〕 「言語道断」は、ことばで説明する道が断たれる意。「言語同断」と書くのは誤り。また、「言語」は慣用的に「ごんご」と読み、「げんご」とは読まない。