昨日の続きです。

 上田万年が留学したのは、独仏戦争の大勝の後の興隆期にあるドイツであり、そこではドイツ語の綴字改良運動がはなばなしく進行していた。ドイツ語の綴字法は発音に比較的近かったのであるがそれでもドイツ国内の各地でさまざまな綴字の仕方があった。独仏戦争に勝って旧ドイツ各国はプロイセンのヴィルヘルム一世による統一ドイツへと進み、その新興の気運は一方でドイツ語の綴字統一運動を盛りたてていた。一八七六年以来、言語学者フォン・ラウマーを主宰者とする委員会は新綴字法を作成し、ドイツ政府は官吏に必ず新綴字法を学ばせ、兵士にも公文書には必ず新綴字法を用いるべく命じていた。このドイツの統一国家への活力に満ちた進行は、明治維新によって新しく開国した日本の歩みに酷似するところがあった。そのドイツ統一と共に進む綴字改良の運動を見た青年上田万年はおそらく故郷日本国の言語と文字の改良に熱い思いをはせ、その推進を「自己の課題」と信じたに相違ない。
 すでに一八六六(慶応二)年、前島密は「漢字御廃止之議」を建白していた。一八七二(明治五)年南部義筹は「文字を改換するの議」を文部省に建白し、ローマ字の採用を提案していた。一八八三(明治一六)年には「かなのくわい」が成立し、翌々年には「羅馬(ローマ)学会」が活動を始めていた。また、一八八七(明治二〇)年にはいわゆる言文一致体による文学が、二葉亭、美妙等によって発表されていた。漢字の使用が教育上の障害であり、漢字使用を廃止しなければ日本はヨーロッパに追付くことはできないとする考えは広まっていた。そうした動きには多少の消長があったが、ドイツの言語改良運動を実見した上田万年にとって、漢字廃止、標音文字の採用、仮名遣の改訂、言文一致体の仕様、標準語の確立などという事業の遂行はそのまま愛国的行動であり、日本語を尊重することであった。
 帝国大学教授として加藤弘之、外山正一らの文部省や大学の実力者に親近であった上田万年は、一九〇〇年文部省内に国語調査委員を置き、さらに一九〇二年には正式に国語調査委員会を発足させる運びにこぎつけた。その会長となった東京大学総長加藤弘之は次のような文章を発表している。(国語教育研究会編『国語国字教育史料総覧』一九六九年による)

 国語調査委員会は成立以来九回会合した。(中略)根本問題の如何に決着するに拘らず、兎角の断案を下さねばならぬので、この応急部分に対しても亦相談をして調査事項の種類と範囲とを定めた。即ち其の大方針といふのは、
  一、文字は音韻文字「フオノグラム」を採用することとし、仮名羅馬字の得失を調査すること。
  二、文章は言文一致体を採用することとし、之に関する調査を爲すこと。
  三、国語の音韻組織を調査すること。
  四、方言を調査して標準語を選定すること。
といふ四件になるので、一寸見れば簡単なる事柄の様であるが、これだけの事を定めるのでも、容易なことではない。何故にかく定めたかといふ理由を説明すれば、随分詳細に立ち入つた議論をせねばならぬのである。さて以上四件の中で確定して居る事項は、音韻文字を採用することと、文章は言文一致体を採用することとの二件で、この決定は将来動かさぬのである。即ちこの方針によれば音韻文字を採用するのであるから、無論象形文字たる漢字は使用せぬことに定めたのである。然し、均しく音韻文字と謂つても色々あるが、如何なる音韻文字を採用するかは、未だ決定しない。ただ仮名と羅馬字との長短を比較し、其の得失を調査するといふ方針だけを定めた。
文章は言文一致体を採用するから従来のごとき日常の言語と懸け離れて居る文体は排斥するのである。調査委員会は将来以上の大方針に準拠して慎重な調査を遂げる筈であるが、これが決着するのは、なかなか容易なことではあるまい。
 次に普通教育に於ける応急の手段として、調査を急ぐ事項は、左の件々である。
 一、漢字の節減に就て
 二、現今普通文体の整理に就て
 三、書簡其の他日常慣用する文体に就て
 四、国語仮名遣に就て
 五、字音仮名遣に就て
 六、外国語の写し方に就て
就中最も急を要するもので、議論の多いのは仮名遣の問題である。(下略)

 ここにいわゆる国語国字問題が民間人の文化的運動から転じて、国家の行政の問題として議せられる道が作り出されたわけである。国語国字問題の動きを歴史的に見ると、純粋な文筆家、言語関係者の努力や活動によって多くの国民の合意や納得の上で進展するよりも、官僚の力を借りて自己の意見を押し通そうとする傾きがあるが、その根源は明治時代のこの国語調査委員会の動きにある。

 太字は私(稿者)が施したものです。

 こういった動きのなかで、上田万年がどう動いたかという点については明日引用しますが、私は、ここまでの大野晋のまとめに感動しています。すなわち、よくわかるのです。ただそれだけです。