今日、集英社インターナショナルからメールが届きました。

 一つは、返本は認めずということでした。これは「想定内」でしたが。

 もう一つは、「『舞姫』の冒頭文は、底本の違いだ」ということでした。

 既に『舞姫』の冒頭文については、最初、教科書あるいは、その原文としての『明治文学全集(ルビは別)』との引用間違いを指摘し、後、初出の『国民之友』との異同をこのブログで書きました。

 当然、集英社(以後こう書かせて下さい)は、『無理題に遊ぶ』を読んでいるに違いなく、では、なぜ、「底本が異なる」と言って寄越すのか、疑問に思い、電話で質問いたしました。

 まず、この点で、第三の底本があらわれたことをお知らせいたします。

 『日本語を作った男』は、『水沫集』(明治25年7月ー春陽堂版)を底本にしているということがはっきりしました。

① これだと、その直前の「『舞姫』の冒頭は、暗誦している人も少なくないだろう。」という文がおかしくなるだろうということを指摘しました。特に、教科書では、「熾熱燈の光の晴れがましきも徒(いたづら)なり。」となっていますが、『日本語を作った男』の本文は、「やくなし」となっているからです。

➁ 『日本語を作った男』の「はじめに」の最終行前にこうあります。
  「ただ、出典は明記したので、原文に当たろうとすれば、容易にそれは求められよう。」
『舞姫』のように、底本に相当するものが幾つかある場合、その原文に当たるためには、親切に、たとえば、この場合、「明治25年春陽堂版『水沫集』より」と書くべきではないかと申し入れておきました。

 そして、担当の女性Mさんと、幾つかの原文の確認をいたしました。

 まったく、その明治25年版からの引用だということで電話を終わりました。

 その後、それでもと思って、ネットで「近代デジタルライブラリー」『水沫集』を開いて確認いたしました。

 文中の、「一つとして新(あらたールビは編集者だそうです)かならぬはなく、」がどう考えても、文法的に正しくなく、あの森鷗外のものと考えられなかったからです。

 ○ 「国民之友」=新しからぬはなく(あたらしからぬはなく)
 ○ 「明治文学全集」=新ならぬはなく(あらたならぬはなく)
 ○ 「日本語を作った男」=新(あらた)かならぬはなく

 水沫集では、こうなっていました。
 ○ 新しからぬはなく

 ここは、形容詞の「新(「あらた」か、「あたら」かは問題にしないことにします)し」か、形容動詞の「新なり」しか考えられないのです。
 鷗外ははじめ、形容詞の「あたらしからぬはなく」としたのですが、後、「あらたならぬはなく」と形容動詞に改めたのでしょう。

 集英社の電話の主は、私にウソをつきました。あるいは、よく分かっていなかったのかもしれません。(何度も確認をしましたのに。)

 いずれにしても、いい加減な出版社の対応でした。この本のこと、今更ながら呆れています。

 いやいや、鷗外の悪口を書く、筆者の悪意の捏造かもしれないなと疑ってもいます。