この、『日本語を作った男』の著者、山口謠司がどんな人間なのか全く知りません。この本でだけのつきあいです。それにしても、一介の高校の国語教師の目から見ても、かなり、異常。日本語の特別な才能の持ち主とは褒め言葉。まったく常識的な日本語の使い手とはとても考えられません。

⑴ すでに、この本の出版社も認めているように、「筆は一本、箸は二本、衆寡敵せずと知るべし」という有名な斎藤緑雨の警句を誤って使っています。

⑵ ーここから引用ー『日本語を作った男』(23頁)

 (大槻文彦は)アイウエオ順に日本語を並べて、福澤諭吉から「下駄箱のように言葉を並べた」と言われながらも、我が国で初めて『言海』という近代的な辞書を作った。
 そして、その偉業の陰には子どもの死、得られるべくして得られない地位や名誉など、少なからざる不幸が彼を襲っていた。
 大槻の『言海』には、それに打ち勝つ精神力が原動力としてあった。
 しかし、大槻の不幸に比べると、地位や名誉という点では、東京大学で文学部長になり、娘が小説家となり、園遊会などにもたびたび呼ばれた万年(上田万年)には、不幸と呼ぶ不幸はなかった
 しいて挙げるとすれば、大腸癌で死んだことくらいだろうか

 ーここまで引用ー

 上田万年の年譜によれば、「白内障」の手術を受けたり、軽い「脳溢血」、そして、直腸癌で昭和十二年亡くなるのですが、死ぬことを「当人の不幸」と言う神経は私にはわかりません。

 と書いたところで、老妻や、周辺から、「もういい加減にしなさいよ、悪口を書く度にこの本の読者が増えているのではないですか」という辛辣な指摘を受けました。

⑶ 決め手を用意しました。この筆者の文章に、丸谷才一さんがあの世から、はっきりクレームをつけているだろうことを想像して書いておきます。(この本の「第十六章 唱歌の誕生」について、崎山言世さんの「言世と一昌の夢幻問答」という本当に優れたブログが公開されています。死者との会話です。ぜひお読み下さい)

 私のは、問答でも対話でもありません。ただ、勝手に丸谷さんは筆者のことを笑っているだろうなと想像しているだけです。

 ただ、長い引用をしなければわかりません。

 このブログ、最近、本当に使い勝手が悪くなりました。特に、老人にはわかりにくいことばかり。

 申し訳ございませんが、今週の終わり(六月十日まで)連続もので書くことをお許し下さい。そして、ぜひ、お読みいただくことをお願いいたします。

 まず、谷崎潤一郎の関係年譜を書いておきます。

○ 大正九年(一九二〇)一月 『鮫人(こうじん)』を「中央公論」に発表
○ 昭和七年(一九三二)四月 『倚松庵随筆』を創元社より刊行
○ 昭和九年(一九三四)十月 丁未子夫人と正式離婚
○ 昭和九年(一九三四)十一月 『文章讀本』を中央公論社より刊行
○ 昭和十年(一九三五)一月 根津松子と結婚。
○ 昭和十年(一九三五)九月 「源氏物語」現代語訳の執筆を始める

 ーここから引用ー『日本語を作った男』(321頁より)

 丸谷は、谷崎潤一郎(一八八六~一九六五)の『文章読本』(昭和九年)を取り上げて最大限にその才を褒めながら、「谷崎の最大のあやまちは、眼目である第二章『文章の上達法』の劈頭に見ることができる」と言う。(中略)
 ここで、谷崎は「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない。だから、文法に囚はれるな」と言うが、丸谷によれば、ここで谷崎が書く「文法」とは、日本語のそれではなくなんと「英文法」のことなのである。
 谷崎の文章のなかに「文法」とあるところを、丸谷は「英文法」に置き換えて引用している。

 斯様に(かよう)に申しましても、私は英文法の必要を全然否定するのではありません。初学者に取っては、一応日本文を西洋流に組み立てた方が覚え易いと云ふのであつたら、それも一時の便法(べんぽう)として已(や)むを得ないでありませう。ですが、そんな風にして、曲りなりにも文章が書けるやうになりましたならば、今度は余り英文法のことを考へずに、英文法のために措(お)かれた煩瑣(はんさ)な言葉を省くことに努め、国文の持つ簡素な形式に還元するやうに心がけるのが、名文を書く秘訣の一つなのであります。
(稿者注ーこの五行は中央公論版谷崎潤一郎『文章読本』(78頁)の、「文法」という言葉を丸谷才一が「英文法」に直して引用したものです)

 ーここまで引用ー

 谷崎は、自分の『鮫人』の一節を例にとって、人称代名詞の多さ(英文法における、主語の多さ)を戒めながら、『雨月物語』のような日本文の、「主語の省略」や「時制のなさ」を名文の条件とすると主張するのです。

 「まともに読めば、何を言っているのか、何を言いたいのか分からない『名文を書くための秘訣』に思えるが、……」と筆者〔山口謠司)は書く(322頁)が、論旨はきわめて明確なのです。

 谷崎は、英文法でいう、「主語」や「時制」の必要を初心者に認めながら、それらを省くことが国文(日本文)の「名文」の条件だと言っているわけです。

 長くなるので最後の部分だけご記憶下さい。