今日、1月15日(金)の朝刊で、「歌会始の儀」における皇族方の歌を読みました。
どれも素晴らしく、それぞれ、何を訴えられているかよくわかったのですが、特に天皇の御歌についての疑問を、短歌については素人、ただ、高校の一国語教師として書きとめておきます。
「また、文法か」とお叱りを受けそうですが、仕方ありません。ご容赦下さい。(引用古語辞典は、大修館版『古語林』です)
天皇陛下の御歌
戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ
① 「とふ」
とふ [格助=他ハ四]《上代語》~という。(例)玉藻刈るとふ海人(あま)をとめども〈万・一五〉★格助詞「と」に動詞「いふ」が付いた「といふ」が変化したもの。⇒てふ
てふ [格助=他ハ四]~という。〈例〉うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき(小町・古今・恋)★格助詞「と」に動詞「いふ(言ふ)」が付いた「といふ」が変化したもの。▼上代では、「ちふ」「とふ」が用いられた。
➁ 「横たふ」
横たふ ㊀ [他ハ下二] 横にする〈例〉琴をよこたへて、弾きていはく(書紀・雄略)
㊁ [自ハ四] 横になる。横たわる。横切る。〈例〉荒海や佐渡によこたふ天の河(奥の細道・越後路)★「横たふ」の自動詞形は「横たはる」であるが、江戸時代の俳句・俳文や漢文訓読では「横たはる」の間のびした語感を避けて、「横たふ」の形にして用いたようで、他にも用例がある。
疑問点❶ ➁の「横たふ」という問題を持つ語をなぜ使ったのかという点です。この「横たふ」の自動詞形については、すでに芭蕉の句について、多くの学者がそれぞれ違った捉え方をしていることは周知の事実でしょうから。
疑問点❷ ①の「とふ」は上代語です。仮に❶の「横たふ」という語を自動詞として認めるとして、用例は江戸時代のものです。そして、「とふ」は前記のように「上代語」。
だから、「てふ」ならまだわかるが、「とふ」では日本語のあり方として納得しがたいわけです。
こんなところでしょうか。
私は昨年初め、天皇陛下の次の歌中の「めや」についてこのブログで疑問を呈しました。
爆心地の碑に白菊を供へたり忘れざらめや往にし彼の日を
三省堂国語辞典の編纂者である飯間浩明氏は、そのツイッターで、次のように答えていました。
「『めや』ということばについて、なおも考えています。『風立ちぬ』の例なども参考にすると、陛下のお歌「忘れざらめや」は、「めや」の現代用法と考えたほうがすっきりするかもしれません」
この時、飯間氏がもう少し本気で、宮内庁あたりに働きかけていたら、あるいは次のような歌の仮名遣いなどの問題は防げたのではないかと残念に思うわけです。
父君の蒔かれし木より作られし、鍬を用ひてくろまつを植う
「用ふ」は誤解から生じたもので、本来は「用ゐる」と教科書で説明する、我々国語教師の苦衷?を察して下さい。
そして、このたびのこと。
私は短歌について素人で、なにもわかりません。ただ、天皇、皇后両陛下など、何かのたびに歌を読まなくてはならない、その苦しみを遠くから拝察し、宮内庁や、召人あるいは、選者など、その道の専門家はどうアドバイスを送っているのかと怒りさえ覚えています。
陛下に対して、随分失礼なことを書き続けました。同時代を生きてきた者の的外れの直言とお聞き下さることを伏してお願いいたしておきます。
こんな失礼なことを書いてきたのだから、このブログもしばらく謹慎したいと思っています。
どれも素晴らしく、それぞれ、何を訴えられているかよくわかったのですが、特に天皇の御歌についての疑問を、短歌については素人、ただ、高校の一国語教師として書きとめておきます。
「また、文法か」とお叱りを受けそうですが、仕方ありません。ご容赦下さい。(引用古語辞典は、大修館版『古語林』です)
天皇陛下の御歌
戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ
① 「とふ」
とふ [格助=他ハ四]《上代語》~という。(例)玉藻刈るとふ海人(あま)をとめども〈万・一五〉★格助詞「と」に動詞「いふ」が付いた「といふ」が変化したもの。⇒てふ
てふ [格助=他ハ四]~という。〈例〉うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき(小町・古今・恋)★格助詞「と」に動詞「いふ(言ふ)」が付いた「といふ」が変化したもの。▼上代では、「ちふ」「とふ」が用いられた。
➁ 「横たふ」
横たふ ㊀ [他ハ下二] 横にする〈例〉琴をよこたへて、弾きていはく(書紀・雄略)
㊁ [自ハ四] 横になる。横たわる。横切る。〈例〉荒海や佐渡によこたふ天の河(奥の細道・越後路)★「横たふ」の自動詞形は「横たはる」であるが、江戸時代の俳句・俳文や漢文訓読では「横たはる」の間のびした語感を避けて、「横たふ」の形にして用いたようで、他にも用例がある。
疑問点❶ ➁の「横たふ」という問題を持つ語をなぜ使ったのかという点です。この「横たふ」の自動詞形については、すでに芭蕉の句について、多くの学者がそれぞれ違った捉え方をしていることは周知の事実でしょうから。
疑問点❷ ①の「とふ」は上代語です。仮に❶の「横たふ」という語を自動詞として認めるとして、用例は江戸時代のものです。そして、「とふ」は前記のように「上代語」。
だから、「てふ」ならまだわかるが、「とふ」では日本語のあり方として納得しがたいわけです。
こんなところでしょうか。
私は昨年初め、天皇陛下の次の歌中の「めや」についてこのブログで疑問を呈しました。
爆心地の碑に白菊を供へたり忘れざらめや往にし彼の日を
三省堂国語辞典の編纂者である飯間浩明氏は、そのツイッターで、次のように答えていました。
「『めや』ということばについて、なおも考えています。『風立ちぬ』の例なども参考にすると、陛下のお歌「忘れざらめや」は、「めや」の現代用法と考えたほうがすっきりするかもしれません」
この時、飯間氏がもう少し本気で、宮内庁あたりに働きかけていたら、あるいは次のような歌の仮名遣いなどの問題は防げたのではないかと残念に思うわけです。
父君の蒔かれし木より作られし、鍬を用ひてくろまつを植う
「用ふ」は誤解から生じたもので、本来は「用ゐる」と教科書で説明する、我々国語教師の苦衷?を察して下さい。
そして、このたびのこと。
私は短歌について素人で、なにもわかりません。ただ、天皇、皇后両陛下など、何かのたびに歌を読まなくてはならない、その苦しみを遠くから拝察し、宮内庁や、召人あるいは、選者など、その道の専門家はどうアドバイスを送っているのかと怒りさえ覚えています。
陛下に対して、随分失礼なことを書き続けました。同時代を生きてきた者の的外れの直言とお聞き下さることを伏してお願いいたしておきます。
こんな失礼なことを書いてきたのだから、このブログもしばらく謹慎したいと思っています。