「腑に落ちない」という慣用句について、「腑に落ちる」と辞書が立項し、「多く、下に否定の語を伴って用いる。」と注するならば、用例は、「腑に落ちる」と共に、「腑に落ちない」も挙げなければならないのは当然でしょう。

 『日国大』初版はそれを怠って、「腑に落ちる」の用例のみを載せていました。

 恐らく、どこからか、それについてのクレームがついたのでしょう。

 『日国大』第二版には、次の用例が加わりました。

 羽なければ(1975)〈小田実〉「どうにもフに落ちんことがありまっしゃろ、それはやっぱし訊かなしょうあらしません」

 「多く、下に否定の語を伴って用いる」ということについて、『明鏡』第二版は「否定の意で使うのが伝統的だが……」と書きます。

 ということは、用例は古くからあるということでしょう。当然のことです。それを、何を考えているのか、「小田実」の1975年の用例を使うなんて、日本一の大辞典と称する辞典のすることでしょうか。他の辞書では、嘉村礒太の『途上(1932)』の用例を載せていますよ。「私はどうも腑に落ちないので、川島先生に(成績ノ)再調査を頼むと……」

 いささか八つ当たり気味ながら、『日国大』の編集主幹、松井栄一の「祖父や父のやっていることを何となく理解はしていたものの、実際に体験して、『辞書を作るとはこういうものか』が腑に落ちたという感じでしょうか」も、罪は重いですよ。辞書は「鑑(かがみ)」ですから、筆がすべったでは治まらないでしょう。

 山田忠雄のように、ケンカを売ることは出来ません。その学識もない一老人の譫言ですが、納得できないことがいくつもこの日本一の辞書にはあります。しかも、第二版においてですよ。

 昨日書いた、『山月記』の、「歯牙にもかけなかった」はこのように立項されています。

 歯牙に懸(か)ける[=留(とどめ)る] 取り立てていう。問題にする。しげに懸ける。歯牙の間に置く。否定の形を伴って用いることが多い。

 ね、まったく「腑に落ちない」と同じでしょう。ところが、こちらには、肯定の用例はありません(「しがにかくるにたらず」などは否定の変化形としてみてですが)

「気の置けない」など、「否定語を伴う慣用句」の肯定的用法が広まっていることは、文化庁の調査でも明らかです。

 だからといって、辞書が先頭に立って、伝統的な日本語を変えるような、そんな風潮を推し進めることは許されないでしょう。これまでの伝統的日本語を大切にしてと願うものです。