『日本国語大辞典』の編者である、松井栄一が、2015年2月、雑誌「望星」で、「祖父や父のやっていることを何となく理解はしていたものの、実際に体験して、『辞書を作るとはこういうものか』が腑に落ちたという感じでしょうか。」と書き、私、老人をいたく怒らせ、「腑に落ちる」という語は脳裡から離れませんでした。
その時のブログで書いたように、「腑に落ちる」で立項しているのは、『日本国語大辞典』のみ、他の辞書は、みな「腑に落ちない」で立項していました。
『三国』第七版
ふに落ちない (句) なっとくした、という気持ちにならない。[肯定形は「ふに落ちる」]
馬鹿馬鹿しい、何たる「芸のなさ」。「ふに落ちない」の肯定形は「ふに落ちる」なんて!とまったく呆れていました。
そこに現れたのが、「腹に落ちる」という言葉。このように使います。
三浦朱門「『第三の新人』は私だけになった」(「文藝春秋10月号」の「阿川弘之の追悼文」より)
ーここから引用ー
このような生き方は文章にも反映されている。彼の文章は中学・高校の教科書に載るような整然としたもので、非常に分かりやすい。日本語は必ずしも論理的なものではない。しかし、阿川は、日本人だったら素直に腹に落ちるような概念、考え、思想の流れを踏まえたうえで、余計な言葉で飾らず書いていた。
ーここまで引用ー
ね、いいでしょう。「腹に落ちるような概念……」
広辞苑第六版
腹に落ちる ―― 納得する。合点がいく。腑に落ちる。
「腑に落ちる」を立項しないくせに、語釈ではちゃんと使っているこの怠慢。
『日本国語大辞典』は、「腹に落ちる」と立項し、「合点がいく。納得する。」として、二葉亭四迷の『浮雲』と、小栗風葉の『青春』の例を挙げています。すなわち、「腹に落ちる」は明治時代にちゃんとした言葉として、市民権を得ている言葉だったということです。
だから、「腑に落ちない」に対して使われた言葉は、「腹に落ちる」ではなかったかと。
『三省堂国語辞典』は、次のように書かなければならないのです。
ふに落ちない (句) なっとくした、という気持ちにならない。(肯定形は、本来は「腹に落ちる」であったが、最近は「ふに落ちる」が使われるようになった)
どんなに行数を費やしても、これくらいのことは辞書として必要なことだろうと、腹立ち半分の感懐です。
その時のブログで書いたように、「腑に落ちる」で立項しているのは、『日本国語大辞典』のみ、他の辞書は、みな「腑に落ちない」で立項していました。
『三国』第七版
ふに落ちない (句) なっとくした、という気持ちにならない。[肯定形は「ふに落ちる」]
馬鹿馬鹿しい、何たる「芸のなさ」。「ふに落ちない」の肯定形は「ふに落ちる」なんて!とまったく呆れていました。
そこに現れたのが、「腹に落ちる」という言葉。このように使います。
三浦朱門「『第三の新人』は私だけになった」(「文藝春秋10月号」の「阿川弘之の追悼文」より)
ーここから引用ー
このような生き方は文章にも反映されている。彼の文章は中学・高校の教科書に載るような整然としたもので、非常に分かりやすい。日本語は必ずしも論理的なものではない。しかし、阿川は、日本人だったら素直に腹に落ちるような概念、考え、思想の流れを踏まえたうえで、余計な言葉で飾らず書いていた。
ーここまで引用ー
ね、いいでしょう。「腹に落ちるような概念……」
広辞苑第六版
腹に落ちる ―― 納得する。合点がいく。腑に落ちる。
「腑に落ちる」を立項しないくせに、語釈ではちゃんと使っているこの怠慢。
『日本国語大辞典』は、「腹に落ちる」と立項し、「合点がいく。納得する。」として、二葉亭四迷の『浮雲』と、小栗風葉の『青春』の例を挙げています。すなわち、「腹に落ちる」は明治時代にちゃんとした言葉として、市民権を得ている言葉だったということです。
だから、「腑に落ちない」に対して使われた言葉は、「腹に落ちる」ではなかったかと。
『三省堂国語辞典』は、次のように書かなければならないのです。
ふに落ちない (句) なっとくした、という気持ちにならない。(肯定形は、本来は「腹に落ちる」であったが、最近は「ふに落ちる」が使われるようになった)
どんなに行数を費やしても、これくらいのことは辞書として必要なことだろうと、腹立ち半分の感懐です。