私は、夕方必ず散歩に出ます。道路の右側をひたすら歩きます。約、5,2キロ。向こうから犬を連れたり、走ったりの人と出会いますが、絶対に譲りません。場合によっては、指で「あなたはあちらを歩きなさい、走りなさい」と無言で指示します。その間何を考えているか、この夜、書くブログのことです。約一時間あまり、その道中のことをほとんどを覚えていません。誰と会ったか、日がどれほど沈みかけたかなど。帰ったら、あの辞書を調べて、あのことの結論を出そうなどと妄想をたくましくするだけです。勿論、帰ったら、着替える前に、裸のまま、すぐ実行します。あの辞書と、あの本とという風に。

 今日、頭にあったのは、「傘寿」のこと。これまで、何度も書いてきましたが、見坊豪紀は、この語を1964(昭和39)年富安風生の俳句〝天われに傘寿(さんじゅ)をたまふ菊供養〟でカードに書き留めました。そして、当時「傘」のことを「からかさ」と言っていたから、「傘寿=(数え年の)八十歳の祝い)[からかさの略字「仐」が八十と読めることから]とカードに書き記しました。

 このカードを使った、『新明解』初版(1972)は、

 さんじゅ[傘寿] [傘(カラカサ)の略字「仐」が八十と読めることから]八十歳(の祝い)

 と立項しました。

 このことをもう少し追跡すると、『三国』第三版は、「からかさ」が既に廃れていると考えた故か、「傘(カサ)」と訂正しました。以後現在の第七版まで、傘(カサ)の略字と明記しています。

 一方、保守的?な、『新明解』は、相変わらず、第七版でも、

 さんじゅ【傘寿】 [傘(カラカサ)の略字「仐」が八十と読めることから]八十歳(の長寿の祝い)。

と立項しています。

 実は、見坊の「悲しみ」は、提供したくない山田忠雄に、「見坊カード」約三十万(1960~1965)が渡され、それが『新明解』にそのまま利用されたことでした。彼が、運命の「一月九日」に怒ったのは、このカードの行方だったというのは昨日書きましたが、一方、彼は、自分の用例カードを、同時に進行していた小学館版「日本国語大辞典」の編纂者に提供すると申し出ました。

 ところが、自分が編集委員に名を連ねながら、その小学館版『日本国語大辞典』の編纂者からその「カード」を受け取ることを断られました。

 『日本国語大辞典』初版の第二十巻「編集後記」は次のように記しています。

 ーここから引用ー

 「(前略)
 なお、現代語については見坊豪紀氏が収集された、新聞雑誌からの資料を拝借して反映させることも検討されたが、実現できなかった。それは、その資料の膨大さに圧倒されたことと、この辞典の性格として、戦後の資料を積極的に取りいれるゆとりのなかったことに起因する。(『日本国語大辞典』初版第二十巻「編集後記」(昭和五〇(一九七五)年一一月 倉島長正 記)

 ーここまで引用ー

 こうして、当時の最大の日本語辞典『日本国語大辞典初版』には、「傘寿」は立項されませんでした。

 ーここから引用ー

 ついでに言うと、いま出ている国語辞典で(もちろん小生の持っている範囲で)一番いいのは右の『学研』ですね。これは現代語専門で、明治以降の文学作品からたくさん用例をとってある。それがいい。辞書の生命は用例ですから――。用例のない辞書は足のない馬みたいなもので、乗ったらつぶれてしまう。なお「用例」とはちゃんと出典を示したもののことで、編者の作った「例文」にはネウチはありません。
 ただ、『学研』が文学作品から用例をとったのは、それが一番手っとりばやいからというだけのことで、ほんとうは新聞や雑誌からも拾えばもっともっともっといい辞書ができる。(以下略)
(高島俊男『人心と民心、どうちがう?』より)


 ーここまで引用ー

 『学研』にも立項されず、「傘寿」が『広辞苑』に立項されたのは、第三版1983(昭和58)年からでした。

  一方で、『新明解』初版に勝手に使われ、一方『日国大』から拒絶された「見坊カード」。見坊豪紀の気持ちはいかばかりであったろうかと、そのカード(「傘寿」は一例です)の運命を思い、涙する思いです。